ロイ・マスタングは、その少女に惚れ込んでいた。というのも、その当時には気づいていなかったのだが。とうの昔に彼女に惚れ込んでいて、それに見て見ぬふりをしてやり過ごしてきたのだった。それは自分自身のためでもあったし、彼女のためでもあった。何せ、その少女は曰くつきだったからだ。
稀代の天才錬金術師というと、おそらくロイと同世代の錬金術師たちは口を揃えてその名を出すだろう。|偏屈《ウィアード》オルセン、というのは|正《まさ》しくそれだった。昨年に錬成事故で亡くなった彼だが、発表された数少ない論文はどれも隙のない錬金術の構築様式を呈しており、数多の錬金術師たちを魅了した。彼の教えを請う為に多くの錬金術師が門戸を叩き、だが門前払いにされたという。ロイがオルセンと交流を持てたというのは、奇跡でしかなかった。というのも、オルセンの実の息子である男とは錬金術の師を同じくする学友だったからだ。その縁を|以《もっ》てしてオルセンに会うことができたし、彼女とも出会えたのだった。
その少女は、稀代の天才錬金術師オルセンの血を色濃く継ぐ、オルセンの娘だった。
|中央《セントラル》国立公園に、土肌が剥き出しになっているだけの一角がある。一角と言ってもかなり広い範囲だ。つい数ヶ月前まで瓦礫の撤去作業が行われており、今でも風が吹くと土埃が舞う。今日も多少風があるせいで、薄らと土埃が舞い始めていた。その奥に、少女が突っ立っている。ようやく見つけた、と安堵した。多少痛む頭を押さえ、彼女の元へと向かう。
「ここにいたのか」
声をかけると、少女は驚いたように身を震わせて振り向いた。肩まで伸びたプラチナブロンドの癖っ毛が風で揺れている。
「何で、あんたがここに……」
「それはいいだろう、今は」
言い切ってから、密かに息を吐く。何箇所かまわって探したせいか、多少疲労していた。
「何か用事?」
困惑した少女の瞳が揺れる。泣いていたのだろう。
「君に会いたかった」
「そう……」
答えた少女はロイから顔を逸らせた。拒絶されているようで、どことなく落ち着かない。不安が的中しているのを感じる。
「これから、どうするつもりだ?」
訊ねると、彼女はこちらを見ずに呟く。
「どうするって」
「医師免許もある、軍属の資格も得た」
目の前で俯く少女は、正に才媛と言うべき存在だ。錬金術の才に恵まれたというのももちろんだが、歳はまだ十五だというのに戦時特例を利用して医師免許まで取った。軍属の資格まで取るつもりだったとは思っていなかったが。
「軍医になるのだろう?」
少女は肩をぴくりと震わせた。
「まあ……それも含めて考えるよ」
「そうか」
彼女にそう言われると、続く言葉が出てこない。だが、ここで引くというのも不安だった。何しろ、ここへ来てから少女とは一度も目が合わない。彼女はまるで幻とでも会話しているようだった。せめて、名前だけでも呼んでくれないか、と密かに願う。
「ねえ、ロイ」
目線は合わないままで少女が名を呼ぶ。思考を読まれたのかと驚いた。
「何だ?」
「あたし、頑張ったよね」
思いもかけない言葉に、ロイは一瞬返答を|躊躇《ためら》った。
「そうだな。今まで……色々あった」
言葉を濁したのは、ここで口にするべきではないと思ったからだ。色々のうちには他言できないようなものも含まれる。ここに人影はないが、それでも口から出してしまう言葉ではない。彼女に降りかかった色々な出来事の元凶は、彼女がオルセンの娘として生まれたことに起因する、と言い切ってしまいたくはなかった。
「この短期間で医師免許まで取得するとは思っていなかったよ」
とりあえず直近の出来事を話題に出す。
「頑張ったな」
そう言って少女の頭に手をやる。すんでの所で撫でるのをやめた。この手で彼女に触れていいものか。
「うん。だからね」
ロイに構わず、少女は続ける。
「頑張るの、もうやめたい」
言ってから、彼女は初めてロイの目を見た。薄い青色をした瞳が揺らぐ。充血しているせいか、痛々しく見えた。
「みんな、いなくなっちゃったんだ。兄さんも、じいちゃんも、父さんも」
一気にそこまで言い切って、彼女は一旦口を閉じる。彼女の血縁者の死には、漏れなく彼女が関わっている。知っているからこそ、迂闊なことは言えなかった。彼女にしても、それが分かっているからこそ投げた言葉だろう。
「全部、あたしのせい」
「そんな……」
そんなことはない、の一言がどうしても出てこない。少女の頭上に差し出したままの手は拳を握って引っ込める。
「頑張っても、頑張るだけ事態が悪化していくのなら」
ぎくり、とした。続く言葉は聞きたくない。
「あたし、もう頑張りたくない」
少女は|縋《すが》るようにしてロイを見上げる。
「やめていいよ、って言って」
少女に両腕を掴まれる。丈夫な軍服越しに掴まれた両腕よりも、心臓の方が痛い。脈動に合わせるようにして、頭が痛んだ。思わず顔を|顰《しか》める。
「言ったら、君はどうなるんだ?」
平静を装ったつもりが、声は震えてしまった。少女の言わんとしていることが分かる。
「全部、終わりにする」
小さく呟いた彼女の声に、深く息を吐いた。その言葉の意味は、つまり自らの死を願っているということだ。いつの間にか彼女の瞳から光が失われていた。こういう目は、いくらでも見てきた。希望を一切砕かれた人間のする目だ。あの赤い瞳と、目の前の少女の瞳が被って見える。
「無責任な」
呻くようにして呟いたそれは、本音だった。彼女の心情を思いやる余裕など、一気に吹き飛んでしまっている。
「だって」
責めるような言い方をしたロイに、少女は慌てて首を振る。が、それを遮るようにして続けた。
「そもそも、君は何のためにここまで来た? 医師免許を取って、軍医になろうとしたんだ?」
「それは……」
少女は、徐にロイの両腕から手を離す。
「ロイと、リザの側にいたかった」
言って、彼女は俯いた。
「二人が、もう危ない目にあわないように」
幼い子供のような口ぶりが、彼女の才覚と見合わない。危ない目、というのは先の内戦の話だろう。詳しく彼女に語ったことはなかったが、何があったのか、特にロイのような国家錬金術師である将校がどういった仕事をしてきたのか、くらいは知っているらしい。
「助けたいって思ったから」
「で、それを放棄して逃げるのか。一人で?」
少女の言葉を半ばで遮り、責め立てるつもりで言い放つ。自分でも言い表しようのない苛立ちが、全身に広がってきているのが分かった。あの凄惨な戦場を、彼女一人でひっくり返せるとでも言うのか。否、軍に所属している立場である以上、彼女があの場にいたのなら自分以上の人間兵器として活躍していたに違いない。彼女の取得した国家資格が、国家錬金術師でなかったことが何よりの救いだった。
「これ以上、失いたくない……」
小さな声で呟いた少女は、顔を上げる。
「あたしのせいで、ロイもリザも死んじゃったら」
その言葉に、あの戦場で無双する少女を妄想した。
「もう……耐えられないよ……」
子供らしい大きな瞳を潤ませ、彼女はこちらをじっと見つめる。
――つまり、才ある少女はその才能に押し潰されてしまったというわけだ。大人の誰もが彼女を救わず、それどころかその才能を利用するばかりだった。自分だって、その一人に過ぎない。軍人となったロイと関わることは、民間人で一錬金術師である彼女にとって危険だと判断したことが、そもそもの間違いだったらしい。ロイは確かに彼女に惚れ込んでいた。だが、それは彼女の持つ才能に限ってのことだ。そう思い込んでいたことに、今更気付いた。
「ああもう……グダグダと」
まとまらない自分の思考に苛立ち、頭を振る。蘇ってくる痛みに、また苛立つ。
「ロイ?」
「君は、どうあっても死にたいと言うんだな」
少女は返事の代わりに、ロイから目を逸らす。深く息を吐き、頭痛をやり過ごした。
「体調が万全じゃないんだ。機嫌もすこぶる悪い」
「え?」
声色を変えると、困惑したらしい彼女がこちらの様子を伺うように向いた。
「本音を言う」
「な、何?」
覚悟を決め、彼女の胸ぐらを掴んで引き寄せる。小さな悲鳴をあげて、少女は身を捩った。
「ふざけるなよ! 何が終わりにしたいだ! なめたことを言うな!!」
自分の上げた大声に、眉根を寄せる。苦しそうに呻く少女には構わずに、勢いのまま続けた。
「君は自分の才を認識できていないのか!? 錬金術において、誰もが羨むほどの才能があると自覚していないんだろう!?」
ロイの中に確かにあった羨望が、醜く吐き散らかされる。
「その才能を持ったまま、無駄に死にたいだと!? いい加減にしろ!!」
少女を掴んだ腕に一層力を込め、彼女の表情を苦痛に歪ませた。
「私だって欲しいんだ……その才能が」
絞り出したその言葉が、本音のうちの一つだった。羨んでも手に入らないものを、容易く捨ててしまおうと考えられる彼女が許せない。
「捨てるくらいなら、寄越せ!」
言い放った言葉が、周囲に響き渡る。はっとして、少女を掴んでいた手を離した。いくら前置きをしてあったからとはいえ、言い過ぎだ。号泣でもするのではないかと不安だったが、意外にも彼女は呆然としているだけだった。その反応にしても当然といえば当然だ。才能を寄越せ、というのは無茶な要求である。
「兄さんと同じこと言うんだね」
乱れた胸元を手で拭いながら、彼女は恨み言のようにいう。彼女の兄は、おそらく自分よりも羨望を強くしていただろう。幼い頃から嫌というほど彼女の才能を見せつけられ、比較もされていた。そんなものと一緒にしてもらいたくない。
「才能だけじゃない」
気づくと口を開いていた。
「身も心も、全部寄越せ」
頭で判断するよりも先に言葉が出てくる。先ほどよりもよほど無茶な要求だ。
「君が使わないのなら、私が使う。私が」
少女の肩を掴み、その瞳を確と見据える。
「君の全てを貰い受ける」
言い放った瞬間、周囲を炎が包む。この場にあったはずの邸宅が、炎に耐えきれず音を立てて崩れていく。目前にまで迫っている炎だが、熱くはない。一年前のあの日に救えなかった少女は、この炎にまかれて死んだはずだった。否、彼女はそもそも、その生すら認められていなかった。確かに十三歳のロイ・マスタング少年を魅了した天才錬金術師――キャロライン・オルセンは、アメストリス中どこの記録にも残されていなかった。
「何それ」
燃え盛る炎を意に介さず、少女はロイの言葉の真意を探るようにこちらを見つめる。炎は実際にこの場にあるものでも、ロイが錬成したものでもない。二度とこの炎に彼女を呑ませないための、戒めだ。
「どうあっても、君は一人では死なせない」
激しい炎で少女の姿が霞む。手探りで彼女の姿を確認するが、時折掠める熱さが邪魔をしていた。
「ロイ……」
少女が不安げな声を上げる。声のした方へと手を伸ばした。
「私は、諦めが悪いんだ」
焔の錬金術師が炎にまかれるわけにはいかない。指先に手応えを感じると、すぐさまそれを掴み掛かる。
「縄で縛ってでも連れて帰るからな!」
掴んだそれを抱き寄せると、炎は一斉に消え去っていった。腕の中にあるのは、小さな金髪の少女だけだ。あの日からずっと、焦がれるほどに欲していた。その肉体も、その心も、その才能も、ここで霧散させるくらいなら、その全てを手中に収めてやる。
「縛って、って……」
ロイの腕の中で、少女がもぞもぞと動く。彼女は小さく「苦しい」と呻いた。きつく抱き締めすぎたようで、少しだけ腕の力を抜くと少女はロイを見上げる。不満そうに眉根を寄せていた。
「等価交換」
「はあ?」
気の抜けた返事をすると、少女は思い切りロイの胸を押し返した。あまりの力に思わずよろける。
「あたし全部あげちゃったら、何貰ったらいいのさ?」
はあ、と深く息を吐いた少女は、先ほどまでの悲壮感をすっかり失っていた。ロイがよく知った彼女の調子だ。
「おい。さっきまで死のうとしていたんじゃなかったか?」
「だって、ロイは諦めないんでしょ? あたしが折れるしかないじゃん」
何故だか居丈高な彼女の態度に、毒気を抜かれる。勢い込んで妙な宣言までしてしまったことが、少し恥ずかしくなった。今更撤回する気も全く起きないが。
「何が欲しい? 釣り合うものであれば」
訊ねるが、最後までは言わせてもらえなかった。少女は、ロイの口元へ人差し指を突きつける。
「あたしが欲しいのはね」
そのまま、彼女はロイの目を捉えて続ける。きらきらと光る瞳が少し眩しかった。
「あんたとリザが生きる未来」
彼女が何より恐れる事態を排除するという条件だ。彼女が失いたくないものを守るために協力しろ、ということだろうか。そんなものは言われなくてもそうするつもりだったし、それは彼女にしても理解しているはずだ。ここでそれを求めるというのは、彼女が差しだすものに対して割に合わない。
「そうしたら、頑張れる」
ロイに突きつけた人差し指をゆるゆると降ろし、
「まだ、死ねないよ」
少女はそう付け加えた。なるほど、と得心する。これは等価交換にかこつけた約束だ。彼女が一人で死なないための理由だった。
「分かったよ。約束する」
ようやく安堵できたロイは、そのまましゃがみ込んだ。そうすると身長が逆転する。目線の先にあった少女の手を取り、今度はロイが彼女を見上げる。
「私は君の全てを貰い受けよう。キャロル・ゴドウィン」
「うん。あたしの力も、身体も、心も、全部あんたにあげる」
小さく頷く少女――キャロル・ゴドウィンはロイの手を握り返してくれた。
「その代わりに」
一旦言葉を切り、少しだけ思案する。
「私たち三人が生きる未来を保証する」
口にした三人の内訳は、先ほどキャロルが言った通りのロイとリザ、そしてキャロルだ。面食らったキャロルは大袈裟に驚いて後退りする。
「増えてる!?」
「当然だろう。君は私のものだ」
ぐっとキャロルの手を引くと、彼女は体勢を崩してしゃがみ込んだ。目前に、彼女の顔が現れる。良く知った、識らない顔だった。
「君がいなくては、私は成り立たんよ」
言って彼女の頬を手で撫でると、面白いくらいにさっと紅潮させる。子供のくせに、照れているらしい。一旦目を伏せた彼女は、ややあってから平然とした風を装って訊ねる。
「そういうもん?」
「そういうものだ」
一生懸命背伸びをしているようで、何だか可愛らしいと思った。それを飲み込んで適当な言葉で返したのは、どうも自分も動揺しているようだったからだ。認めたくないし、それを彼女に悟られたくもなかった。
「さて、戻るぞ。やることは山積みなんだ」
キャロルの頬から手を離し、彼女を視界に入れないように顔を背ける。
「さっさと……」
それからやおら立ち上がると、どうも視界がおかしくなる。黒いような、赤いような、景色が回っていくような、なんとも言えない風景に気分が悪くなった。
「ロイ!? ちょっと!」
慌てるキャロルの声を聞いてから、ロイはさっさと意識を手放してしまった。
この日、キャロルと交わしたのは、|終《つい》の約束だった。彼女の全てを貰い受けるというのは、彼女の終わりが自分の終わりと重なることを意味している。そう明言しなかったのは、キャロルのためでもあり、自分のためでもあった。彼女の身も、心も、その才覚も、全てロイのものにする。
少女の抱えた罪ですら、もう全てがロイのものだった。
#鋼の錬金術師 #-終の約束
稀代の天才錬金術師というと、おそらくロイと同世代の錬金術師たちは口を揃えてその名を出すだろう。|偏屈《ウィアード》オルセン、というのは|正《まさ》しくそれだった。昨年に錬成事故で亡くなった彼だが、発表された数少ない論文はどれも隙のない錬金術の構築様式を呈しており、数多の錬金術師たちを魅了した。彼の教えを請う為に多くの錬金術師が門戸を叩き、だが門前払いにされたという。ロイがオルセンと交流を持てたというのは、奇跡でしかなかった。というのも、オルセンの実の息子である男とは錬金術の師を同じくする学友だったからだ。その縁を|以《もっ》てしてオルセンに会うことができたし、彼女とも出会えたのだった。
その少女は、稀代の天才錬金術師オルセンの血を色濃く継ぐ、オルセンの娘だった。
|中央《セントラル》国立公園に、土肌が剥き出しになっているだけの一角がある。一角と言ってもかなり広い範囲だ。つい数ヶ月前まで瓦礫の撤去作業が行われており、今でも風が吹くと土埃が舞う。今日も多少風があるせいで、薄らと土埃が舞い始めていた。その奥に、少女が突っ立っている。ようやく見つけた、と安堵した。多少痛む頭を押さえ、彼女の元へと向かう。
「ここにいたのか」
声をかけると、少女は驚いたように身を震わせて振り向いた。肩まで伸びたプラチナブロンドの癖っ毛が風で揺れている。
「何で、あんたがここに……」
「それはいいだろう、今は」
言い切ってから、密かに息を吐く。何箇所かまわって探したせいか、多少疲労していた。
「何か用事?」
困惑した少女の瞳が揺れる。泣いていたのだろう。
「君に会いたかった」
「そう……」
答えた少女はロイから顔を逸らせた。拒絶されているようで、どことなく落ち着かない。不安が的中しているのを感じる。
「これから、どうするつもりだ?」
訊ねると、彼女はこちらを見ずに呟く。
「どうするって」
「医師免許もある、軍属の資格も得た」
目の前で俯く少女は、正に才媛と言うべき存在だ。錬金術の才に恵まれたというのももちろんだが、歳はまだ十五だというのに戦時特例を利用して医師免許まで取った。軍属の資格まで取るつもりだったとは思っていなかったが。
「軍医になるのだろう?」
少女は肩をぴくりと震わせた。
「まあ……それも含めて考えるよ」
「そうか」
彼女にそう言われると、続く言葉が出てこない。だが、ここで引くというのも不安だった。何しろ、ここへ来てから少女とは一度も目が合わない。彼女はまるで幻とでも会話しているようだった。せめて、名前だけでも呼んでくれないか、と密かに願う。
「ねえ、ロイ」
目線は合わないままで少女が名を呼ぶ。思考を読まれたのかと驚いた。
「何だ?」
「あたし、頑張ったよね」
思いもかけない言葉に、ロイは一瞬返答を|躊躇《ためら》った。
「そうだな。今まで……色々あった」
言葉を濁したのは、ここで口にするべきではないと思ったからだ。色々のうちには他言できないようなものも含まれる。ここに人影はないが、それでも口から出してしまう言葉ではない。彼女に降りかかった色々な出来事の元凶は、彼女がオルセンの娘として生まれたことに起因する、と言い切ってしまいたくはなかった。
「この短期間で医師免許まで取得するとは思っていなかったよ」
とりあえず直近の出来事を話題に出す。
「頑張ったな」
そう言って少女の頭に手をやる。すんでの所で撫でるのをやめた。この手で彼女に触れていいものか。
「うん。だからね」
ロイに構わず、少女は続ける。
「頑張るの、もうやめたい」
言ってから、彼女は初めてロイの目を見た。薄い青色をした瞳が揺らぐ。充血しているせいか、痛々しく見えた。
「みんな、いなくなっちゃったんだ。兄さんも、じいちゃんも、父さんも」
一気にそこまで言い切って、彼女は一旦口を閉じる。彼女の血縁者の死には、漏れなく彼女が関わっている。知っているからこそ、迂闊なことは言えなかった。彼女にしても、それが分かっているからこそ投げた言葉だろう。
「全部、あたしのせい」
「そんな……」
そんなことはない、の一言がどうしても出てこない。少女の頭上に差し出したままの手は拳を握って引っ込める。
「頑張っても、頑張るだけ事態が悪化していくのなら」
ぎくり、とした。続く言葉は聞きたくない。
「あたし、もう頑張りたくない」
少女は|縋《すが》るようにしてロイを見上げる。
「やめていいよ、って言って」
少女に両腕を掴まれる。丈夫な軍服越しに掴まれた両腕よりも、心臓の方が痛い。脈動に合わせるようにして、頭が痛んだ。思わず顔を|顰《しか》める。
「言ったら、君はどうなるんだ?」
平静を装ったつもりが、声は震えてしまった。少女の言わんとしていることが分かる。
「全部、終わりにする」
小さく呟いた彼女の声に、深く息を吐いた。その言葉の意味は、つまり自らの死を願っているということだ。いつの間にか彼女の瞳から光が失われていた。こういう目は、いくらでも見てきた。希望を一切砕かれた人間のする目だ。あの赤い瞳と、目の前の少女の瞳が被って見える。
「無責任な」
呻くようにして呟いたそれは、本音だった。彼女の心情を思いやる余裕など、一気に吹き飛んでしまっている。
「だって」
責めるような言い方をしたロイに、少女は慌てて首を振る。が、それを遮るようにして続けた。
「そもそも、君は何のためにここまで来た? 医師免許を取って、軍医になろうとしたんだ?」
「それは……」
少女は、徐にロイの両腕から手を離す。
「ロイと、リザの側にいたかった」
言って、彼女は俯いた。
「二人が、もう危ない目にあわないように」
幼い子供のような口ぶりが、彼女の才覚と見合わない。危ない目、というのは先の内戦の話だろう。詳しく彼女に語ったことはなかったが、何があったのか、特にロイのような国家錬金術師である将校がどういった仕事をしてきたのか、くらいは知っているらしい。
「助けたいって思ったから」
「で、それを放棄して逃げるのか。一人で?」
少女の言葉を半ばで遮り、責め立てるつもりで言い放つ。自分でも言い表しようのない苛立ちが、全身に広がってきているのが分かった。あの凄惨な戦場を、彼女一人でひっくり返せるとでも言うのか。否、軍に所属している立場である以上、彼女があの場にいたのなら自分以上の人間兵器として活躍していたに違いない。彼女の取得した国家資格が、国家錬金術師でなかったことが何よりの救いだった。
「これ以上、失いたくない……」
小さな声で呟いた少女は、顔を上げる。
「あたしのせいで、ロイもリザも死んじゃったら」
その言葉に、あの戦場で無双する少女を妄想した。
「もう……耐えられないよ……」
子供らしい大きな瞳を潤ませ、彼女はこちらをじっと見つめる。
――つまり、才ある少女はその才能に押し潰されてしまったというわけだ。大人の誰もが彼女を救わず、それどころかその才能を利用するばかりだった。自分だって、その一人に過ぎない。軍人となったロイと関わることは、民間人で一錬金術師である彼女にとって危険だと判断したことが、そもそもの間違いだったらしい。ロイは確かに彼女に惚れ込んでいた。だが、それは彼女の持つ才能に限ってのことだ。そう思い込んでいたことに、今更気付いた。
「ああもう……グダグダと」
まとまらない自分の思考に苛立ち、頭を振る。蘇ってくる痛みに、また苛立つ。
「ロイ?」
「君は、どうあっても死にたいと言うんだな」
少女は返事の代わりに、ロイから目を逸らす。深く息を吐き、頭痛をやり過ごした。
「体調が万全じゃないんだ。機嫌もすこぶる悪い」
「え?」
声色を変えると、困惑したらしい彼女がこちらの様子を伺うように向いた。
「本音を言う」
「な、何?」
覚悟を決め、彼女の胸ぐらを掴んで引き寄せる。小さな悲鳴をあげて、少女は身を捩った。
「ふざけるなよ! 何が終わりにしたいだ! なめたことを言うな!!」
自分の上げた大声に、眉根を寄せる。苦しそうに呻く少女には構わずに、勢いのまま続けた。
「君は自分の才を認識できていないのか!? 錬金術において、誰もが羨むほどの才能があると自覚していないんだろう!?」
ロイの中に確かにあった羨望が、醜く吐き散らかされる。
「その才能を持ったまま、無駄に死にたいだと!? いい加減にしろ!!」
少女を掴んだ腕に一層力を込め、彼女の表情を苦痛に歪ませた。
「私だって欲しいんだ……その才能が」
絞り出したその言葉が、本音のうちの一つだった。羨んでも手に入らないものを、容易く捨ててしまおうと考えられる彼女が許せない。
「捨てるくらいなら、寄越せ!」
言い放った言葉が、周囲に響き渡る。はっとして、少女を掴んでいた手を離した。いくら前置きをしてあったからとはいえ、言い過ぎだ。号泣でもするのではないかと不安だったが、意外にも彼女は呆然としているだけだった。その反応にしても当然といえば当然だ。才能を寄越せ、というのは無茶な要求である。
「兄さんと同じこと言うんだね」
乱れた胸元を手で拭いながら、彼女は恨み言のようにいう。彼女の兄は、おそらく自分よりも羨望を強くしていただろう。幼い頃から嫌というほど彼女の才能を見せつけられ、比較もされていた。そんなものと一緒にしてもらいたくない。
「才能だけじゃない」
気づくと口を開いていた。
「身も心も、全部寄越せ」
頭で判断するよりも先に言葉が出てくる。先ほどよりもよほど無茶な要求だ。
「君が使わないのなら、私が使う。私が」
少女の肩を掴み、その瞳を確と見据える。
「君の全てを貰い受ける」
言い放った瞬間、周囲を炎が包む。この場にあったはずの邸宅が、炎に耐えきれず音を立てて崩れていく。目前にまで迫っている炎だが、熱くはない。一年前のあの日に救えなかった少女は、この炎にまかれて死んだはずだった。否、彼女はそもそも、その生すら認められていなかった。確かに十三歳のロイ・マスタング少年を魅了した天才錬金術師――キャロライン・オルセンは、アメストリス中どこの記録にも残されていなかった。
「何それ」
燃え盛る炎を意に介さず、少女はロイの言葉の真意を探るようにこちらを見つめる。炎は実際にこの場にあるものでも、ロイが錬成したものでもない。二度とこの炎に彼女を呑ませないための、戒めだ。
「どうあっても、君は一人では死なせない」
激しい炎で少女の姿が霞む。手探りで彼女の姿を確認するが、時折掠める熱さが邪魔をしていた。
「ロイ……」
少女が不安げな声を上げる。声のした方へと手を伸ばした。
「私は、諦めが悪いんだ」
焔の錬金術師が炎にまかれるわけにはいかない。指先に手応えを感じると、すぐさまそれを掴み掛かる。
「縄で縛ってでも連れて帰るからな!」
掴んだそれを抱き寄せると、炎は一斉に消え去っていった。腕の中にあるのは、小さな金髪の少女だけだ。あの日からずっと、焦がれるほどに欲していた。その肉体も、その心も、その才能も、ここで霧散させるくらいなら、その全てを手中に収めてやる。
「縛って、って……」
ロイの腕の中で、少女がもぞもぞと動く。彼女は小さく「苦しい」と呻いた。きつく抱き締めすぎたようで、少しだけ腕の力を抜くと少女はロイを見上げる。不満そうに眉根を寄せていた。
「等価交換」
「はあ?」
気の抜けた返事をすると、少女は思い切りロイの胸を押し返した。あまりの力に思わずよろける。
「あたし全部あげちゃったら、何貰ったらいいのさ?」
はあ、と深く息を吐いた少女は、先ほどまでの悲壮感をすっかり失っていた。ロイがよく知った彼女の調子だ。
「おい。さっきまで死のうとしていたんじゃなかったか?」
「だって、ロイは諦めないんでしょ? あたしが折れるしかないじゃん」
何故だか居丈高な彼女の態度に、毒気を抜かれる。勢い込んで妙な宣言までしてしまったことが、少し恥ずかしくなった。今更撤回する気も全く起きないが。
「何が欲しい? 釣り合うものであれば」
訊ねるが、最後までは言わせてもらえなかった。少女は、ロイの口元へ人差し指を突きつける。
「あたしが欲しいのはね」
そのまま、彼女はロイの目を捉えて続ける。きらきらと光る瞳が少し眩しかった。
「あんたとリザが生きる未来」
彼女が何より恐れる事態を排除するという条件だ。彼女が失いたくないものを守るために協力しろ、ということだろうか。そんなものは言われなくてもそうするつもりだったし、それは彼女にしても理解しているはずだ。ここでそれを求めるというのは、彼女が差しだすものに対して割に合わない。
「そうしたら、頑張れる」
ロイに突きつけた人差し指をゆるゆると降ろし、
「まだ、死ねないよ」
少女はそう付け加えた。なるほど、と得心する。これは等価交換にかこつけた約束だ。彼女が一人で死なないための理由だった。
「分かったよ。約束する」
ようやく安堵できたロイは、そのまましゃがみ込んだ。そうすると身長が逆転する。目線の先にあった少女の手を取り、今度はロイが彼女を見上げる。
「私は君の全てを貰い受けよう。キャロル・ゴドウィン」
「うん。あたしの力も、身体も、心も、全部あんたにあげる」
小さく頷く少女――キャロル・ゴドウィンはロイの手を握り返してくれた。
「その代わりに」
一旦言葉を切り、少しだけ思案する。
「私たち三人が生きる未来を保証する」
口にした三人の内訳は、先ほどキャロルが言った通りのロイとリザ、そしてキャロルだ。面食らったキャロルは大袈裟に驚いて後退りする。
「増えてる!?」
「当然だろう。君は私のものだ」
ぐっとキャロルの手を引くと、彼女は体勢を崩してしゃがみ込んだ。目前に、彼女の顔が現れる。良く知った、識らない顔だった。
「君がいなくては、私は成り立たんよ」
言って彼女の頬を手で撫でると、面白いくらいにさっと紅潮させる。子供のくせに、照れているらしい。一旦目を伏せた彼女は、ややあってから平然とした風を装って訊ねる。
「そういうもん?」
「そういうものだ」
一生懸命背伸びをしているようで、何だか可愛らしいと思った。それを飲み込んで適当な言葉で返したのは、どうも自分も動揺しているようだったからだ。認めたくないし、それを彼女に悟られたくもなかった。
「さて、戻るぞ。やることは山積みなんだ」
キャロルの頬から手を離し、彼女を視界に入れないように顔を背ける。
「さっさと……」
それからやおら立ち上がると、どうも視界がおかしくなる。黒いような、赤いような、景色が回っていくような、なんとも言えない風景に気分が悪くなった。
「ロイ!? ちょっと!」
慌てるキャロルの声を聞いてから、ロイはさっさと意識を手放してしまった。
この日、キャロルと交わしたのは、|終《つい》の約束だった。彼女の全てを貰い受けるというのは、彼女の終わりが自分の終わりと重なることを意味している。そう明言しなかったのは、キャロルのためでもあり、自分のためでもあった。彼女の身も、心も、その才覚も、全てロイのものにする。
少女の抱えた罪ですら、もう全てがロイのものだった。
#鋼の錬金術師 #-終の約束