終の約束(二)

「中佐、マスタング中佐」
 徐々に明るんでくる意識の中、女性の声が飛び込んでくる。
「ん……?」
 徐に瞼を上げると、心配そうに覗き込んでくる金髪の女性と目が合う。軍服を纏った彼女は、先ほどのキャロルとは違う女性だ。というよりも、場所すら違う。固い椅子の背もたれに嫌気が差し、背中を離す。
「大丈夫ですか? お疲れのようですが」
 居心地の悪さに首を傾げると、思い切り音が鳴った。無理な体勢で眠っていたらしい。
「ああ……寝てしまっていたのか」
 辺りを見渡すと、ここは完全に倉庫だ。机や椅子が申し訳程度に置かれているが、その配置もちぐはぐだった。資料と思しき書類は適当にそこらかしこに積まれ、ガラクタのような物品が散乱している。おまけに大きな窓もないため、より一層倉庫らしさが際立つ。改めて認識すると、何だか情けない気持ちになった。
――1909年。この年にロイ・マスタング中佐は中央司令部より東方司令部へ異動となった。あの終の約束から一年が経っている。その間にも色々な出来事はあるにはあったが、今は割愛する。まずはこの状況をどうにかしなくてはならないからだ。
「よしっ、と。これでだいぶ作業しやすくなったでしょ」
 小柄なキャロルが、自分よりも幾分大きな机を軽々と運び整然と並べていた。ぶかぶかな白衣の腕を捲り上げた姿は、医者や研究者というより助手と表現した方がしっくりくる。彼女もそれを自覚しているらしく、常に白衣のポケットには医師免許の証明書を忍ばせているのをロイは知っていた。
「それにしても、のっけから倉庫みたいな部屋当てがわれるなんて、期待されてますねえ」
 キャロルの作業を手伝っていた軍服姿の大柄な青年が、呑気に声をかけてきた。
「マスタング中佐」
 うすら笑いを浮かべて、これで皮肉のつもりらしい。ロイは椅子に腰掛けたまま、がしがしと頭を掻いた。
「やかましい。時期はずれの異動なんだ、仕方ないだろう」
 中央のお偉方が口々に「英雄の休養だ」だの「古巣は落ち着くぞ」だの言ってくれたのを思い起こして、また気分が悪くなる。要は厄介払いだ。イシュヴァールでの殲滅戦から時間も経っており、あれの意義を問われた時にイシュヴァールの英雄が中枢にいては困るということだろう。建前としては最近急増する東部テロ対応のための要員だということだったが、それも国家錬金術師としては妥当なところだ。|尤《もっと》もそういった異動はロイに限ったことではなく、このタイミングで数名が中央から消えていた。
 |急拵《きゅうごしら》えの部屋で悪いね、と軽く謝罪した東方司令部の司令官が脳裏に浮かんだ。あの人にそう言われて、逆らえはしない。
「あー、やっぱ左遷だったんだ」
 明け透けに言ってくれるキャロルに、先ほどの女性も同調する。
「まあ、中央でも似たような扱いだったもの」
 彼女の言う通り、あのまま中央へ居座ったところで状況は改善しなかっただろう。
「どこだって構わんよ。この部屋からもすぐに離れることになるだろうな」
 どうも自分には辛辣な女性部下二人に当てつけるようにして、不機嫌な口調で言い放った。
「せいぜい東へ追いやってやったと、|胡座《あぐら》をかいていればいい。油断したところを噛みつきにいってやろう」
 不敵に笑みを浮かべ、固い椅子から立ち上がる。ロイの様子に、キャロルは呆れたようにため息を吐いた。
「うわあ……寝起きなのに元気だねえ」
「元気がないよりいいわよ」
 キャロル同様に呆れた様子の女性は、さっさと散乱している資料をまとめにかかっていた。どうも締まらない。彼女含め、この部屋にいる全員がロイの直属の部下だというのに、どうも敬われているという気がしない。咳払いをすると、男性陣は一斉にこちらを向いた。女性二人はちらりとこちらに目をやるくらいだったが。
「私が狙うのは一番上」
 目の前の机を思い切り叩く。数名が驚いて肩を震わせた。
「大総統の座だ」
 あの戦場の経験を忘れたことは一度もない。守るべき国民を手にかけたことも、命令に逆らえない立場の己も、苛烈さに疲弊していく仲間も、それを強いた立場の者も。士官学校で語った理想を叶えるため、青臭いだなんだと言われようとかまわない。その為にできることなら、なんだってする覚悟は決めてきた。
 共感してくれる仲間も、力だって手に入れた。志半ばで折れないために、未練を預けた人もいる。倉庫からだって這い上がれるというところを見せつけてやろう。全ては、ここからだ。
「中佐」
 水を差したのは、部下の一人――恰幅のいい青年だった。興を削がれ、ロイは不満に眉を寄せる。
「何だ」
「こんな埃だらけの倉庫で言うこっちゃないですよ」
 至極尤もだ。埃まみれに加えて、所々に蜘蛛が巣さえ張っている。理想を語るにも、野望を宣言するにも打ってつけとは言い難い。
「そうそう。中佐がまずやるべきことは」
 先ほどの大柄な青年が、どこからか|は《・》|た《・》|き《・》を持ち出してロイに突きつけた。
「掃除ですよ、掃除」
「何だ、これは」
「はたきですけど」
「そうじゃない! 何故こんなものを」
 当然のように答える青年からはたきを引ったくり乱暴に言い返すと、今度は女性の方が咳払いをした。
「明日から通常業務なんです。今日中に掃除を終わらせなければ」
 言いながら、彼女はロイの前にある机に書類の束を置いた。随分な量だ。
「業務に支障が」
 やはり至極尤もだ。言い返すべき言葉も見つからない。加えて、美人の睨みはなかなかに迫力があった。
「わ、分かった。やろう」
 消沈して答えると、彼女は満足したように頷いた。
「お願いします」
 その一声で、全員が動き出す。各々掃除の時間だ。
 繰り返しになるが、この部屋にいる全員が自分の部下である。東の倉庫にまで付いてきてくれた優秀な部下たちを抱え、ロイ・マスタング中佐は取り敢えず倉庫脱出を目標に掲げることにした。いや、それよりも通常業務にあたるための掃除が先だ。部下から渡されたはたきを振ると、絶望的な量の埃が中から舞い上がってきた。ため息を吐くより先に、くしゃみが出てくる。

 前途多難ではあるが、それはそれで歓迎しよう。行く先が見えていれば問題はない。


#鋼の錬金術師 #-終の約束
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