其の錬金術師は夜に歌う(五)

 七時間後、日が昇って久しいような時間だったが、窓のない倉庫のような執務室にはその恩恵は届いていなかった。結局、医局で申し訳程度の仮眠をとっただけのキャロルは、自分の机の上で大あくびをする。並びでは、同じような状況であるはずのリザが、涼しい顔をして手元の資料に目を通している。キャロルが慣れていないだけなのか、リザが強靭なのかは測りかねる。
「全員、揃ってるか」
 ドアが開くと同時に、ロイが声を張った。全員が席から立ち上がるのを見てから、キャロルもゆるゆると腰を上げる。
「おはようございます、マスタング中佐」
 揃って敬礼を向ける部下に、ロイは手を払って制する。
「ああ、いい。すぐに話をしたい」
「何かあったんですか?」
 訊ねるファルマンに仕草だけで答え、ロイは足早にキャロルの席へと近づいてくる。
「昨晩、キャロル先生が担当した患者だが」
 彼はキャロルを通り越し、リザの元へ向かう。彼女の机の上に整えられていた書類のうちの一枚を取り上げ、それをファルマンへ向かって差し出した。慌てて駆け寄り、ファルマンは書類を受け取ってすぐに目を落とす。
「西三番通り、通称オパール街のバー・ティートゥリー前で泥酔状態と思しき男性を発見、保護したのよ」
 リザは、呆然としている隊の面々に向かって説明した。ロイがファルマンに渡した書類は、恐らく今までの経緯をまとめたものだろう。記憶力に優れた彼にそれを渡すことには意味があった。
「酔っ払いでしょう?」
 キャロルの横で、呆れたようにハボックがこぼす。
「それが、そうでもないんだよ。そのバーで聞き込みしたら、そいつバーの客だったんだけど」
 リザとは対照的に雑然とした机の上の書類から、目的の紙を引っ張り出す。
「飲酒量は大したことない。血中のアルコール濃度もそこまで高くなかった」
 ハボックにそれを渡しながら続けた。が、彼は紙に書かれている文字を一瞥して首を振る。本当に頭を使う作業を嫌っているらしい。そのやりとりに業を煮やしたらしいブレダが、横から紙をひったくる。昨日の検査結果の紙だ。特に専門的なことが書かれているわけでもなく、さっと目を通したブレダも「ああ、本当だな」と頷くくらいはしてくれた。
「じゃ、どうして?」
 訊ねたハボックに答えたのは、上官だった。
「天使の歌声だ」
「は? 歌が何て?」
 要領を得ない彼に、ファルマンが首を振る。
「ああ、違いますよ、ハボック少尉。通称名です」
 的確な彼の回答に、本当に博識だな、とキャロルは声に出さず感心する。
「強力な自白剤。イシュヴァール戦で使われたものなんですが」
 ファルマンがそこまで言うと、重苦しい部屋の空気に居た堪れなくなる。ここにはイシュヴァールでの戦闘行為に関わった者もそうでない者も混在しているが、それが凄惨な現場であったことは全員が知っていた。そこで使われたものは、何であれ畏怖の対象である。
「自白剤で何だってそんな酔っ払いみたいなことになるんだ?」
 重苦しい空気を破ったのは、呑気なハボック少尉の純粋な疑問だった。彼は本当に何も知らないらしい。呆れ半分、安堵半分を混じらせたため息をつき、同じようなため息をついたロイを見やる。
「そこからか……ホークアイ少尉」
 彼が水を向けたのは、キャロルではなくリザだった。一度小さく頷いたリザは、こちらに向き直ってから口を開く。
「天使の歌声というのは、ファルマン准尉の言う通り自白剤の通称名よ」
「精神領域に強烈な作用を与える錬金術が施されてる薬剤だね。そのおかげで、副次作用もてんこもり」
 押し黙っているのも不自然と思い、彼女の説明を引き取った。
「多幸感、高揚感とか……あとは鎮痛効果も高いね。いいことばっかりじゃなくて」
 一度口を閉じる。この先の方が重要だ。
「その効果の大きさ故に中毒性も高いんだ。長期間の服薬で依存症となり自我の崩壊も引き起こすとか……まあ、非公式の情報だが」
 付け足してくれたロイに、頷いて肯定する。
「つまり、ヤバい薬ってことですね」
「そうだな」
 簡易な言葉でまとめてくれたハボックに、ロイは軽く頷いた。
「ハボック少尉、まとめるの上手いね」
「そりゃどうも」
 彼を見上げて皮肉を言うと、嬉しそうに返される。面白い男だ。
「で、そのヤバいお薬の成分が、男の血液から検出されたってわけさ」
「それは」
 どうまとめてくれるのか、少し期待してハボックの言葉を待った。
「超ヤバいってことか!」
 期待はずれだ。大して期待もしていなかったが。
「急に下手になったじゃん」
「うるせえな」
 照れ隠しなのか、ハボックはキャロルの頭を押さえつけてぐりぐりと撫で回す。撫で回されるのも嫌だが、何より力加減をしてくれないために潰れそうになるのが嫌だ。これ以上身長が縮んだら、彼はどう責任を取るつもりなのか。ハボックの腕を払いのけて睨みつける。まさか払いのけられるとは思っていなかったのか、虚をつかれた彼は一瞬驚いたような表情をしたが、すぐにキャロルから目を逸らした。
「それで、天使の歌声相手にどうしようってんです?」
 ブレダが上官へ向けて訊ねる。
「今現在の蔓延状態は喜ばしくはないな」
 ファルマンから返された書類を受け取りながら、ロイはそれに目を落とす。
「市場には流通していない薬物だ。必ず、流した奴が存在する」
 言った彼の目には、書類の文字など映っていないようだった。
「大元を一気に叩き、蹴散らしてやろう」
 書類を手で叩く音がする。改めて、彼が軍の人間だということを思い知った。この期に及んでもまだ現実味のないキャロルとは、真反対の対応だ。キャロルには、天使の歌声というものが本当に流通しているとは思えていなかった。上官の言葉を疑わず、即座に答える彼らもまた軍の人間だ。
 覚悟は足りないが、これでも良いと思っている。そんなものは、ロイにあればいいものだ。キャロルがすべきことは、ロイだけを見ていることだった。
「違法薬物の摘発かあ」
 能天気なハボックの声で我に帰る。少し、思考に耽りすぎていた。
「まあ、一発目としては悪くないんじゃないですか、中佐」
 部下の言葉に頷いたロイは、急に真面目な上官の顔になった。
「まずは、流通経路の確定だな。市街地調査になる」
 全員が|俄《にわ》かに動き始める。各々、市街地の地図を引っ張り出したり、機材の点検を始めたりと、様々であったが。
「いくつかに分かれて調査しようか。夜間に出回ることが多いだろうから、くれぐれも気をつけるように」
「了解です」
 それぞれが答えてから、キャロルはロイに向かって手を挙げた。
「あ、じゃああたしリザと組んでいいですか?」
「ホークアイ少尉」
 不機嫌に指摘され、咳払いする。
「ホークアイ少尉と組んでもいいですか?」
「理由は?」
「女だと相手が油断すんじゃん?」
「良い手だと思うわ。私も賛成です、中佐」
 すぐさま、リザも加勢してくれた。こちらの意を汲んでくれたのだろう。ロイはしばらく思考を巡らせていたようで黙っていたが、ややあって観念したように頷いた。
「分かった。だが、危険度が高い調査になる。慎重にいけよ」
「了解」
 リザに向けて指示をする上官に、彼からの信頼が薄いことを悟る。だからどうこうできるわけでもないが。
「後はどうする? おまえらで決めていいぜ」
 残った男性陣四人を仕切っているのは、ブレダだった。調査は二人以上の人員で周るのが基本、と以前リザに教えられた通り、彼らにもその概念が通っているらしい。
「そうですね、じゃあ」
 しばらく首を捻っていたファルマンと、散々悩んでいる様子のフュリーが指差したのは同時だった。
「ブレダ少尉と」
 選択肢として機能しているかは疑問だったが、それでも残ったハボックは項垂れる。
「被ったな」
 一連のやり取りを傍観していたロイが呟く。
「俺、不人気ですね」
「おまえは囮調査の件があるだろう。誰も爆弾と行動したいとは思わん」
「ひっでえ!」
 囮調査というのは、以前解決した事件での話だ。彼らがまだ士官候補生の頃で、キャロルも関わった案件である。正義感と行動力を併せ持ったところは嫌いではないが、そうなると話も聞いてくれないところが厄介だった。ロイにしても同様らしく、嘆いたハボックに苦笑していた。
「そう言うな。爆発物の扱いは心得ている。おまえは私と来い、ハボック」
 言ってのける上官に、ブレダが懐疑的な視線を送る。
「え、中佐も出るんですか?」
「当然だ」
 何が当然なのかは、キャロルには分からない。普通、こういう時に指揮官が率先して調査へ向かうものなのか。
「公然と夜の街を出歩けるんだぞ。仕事だから仕方がないことだが」
 胸を張る上官は、心なしか浮ついているようにすら見える。こういう時に引き締めてくれない男だった。呆れているのはキャロルだけではない。リザは小さくため息を吐いてから、ハボックに小声で話しかけた。
「ハボック少尉」
「は、はい?」
 あまりの緊張感からか、ハボックは半歩後ずさった。
「くれぐれも、羽目を外さないように」
「わ、分かってます」
「あなたじゃないわ。中佐よ」
「え?」
 市街地の地図を眺めながら何ごとか算段を立てているロイに、キャロルも小さくため息を吐いた。彼の目には、飲屋街の店名しか入っていないだろう。


#鋼の錬金術師 #-其の錬金術師は夜に歌う
#鋼の錬金術師 #-其の錬金術師は夜に歌う