彼の錬金術師は朝を嘆く(一)

#鋼の錬金術師

 イーストシティの歓楽街でいうと、裏手にあたる。比較的|煌《きら》びやかな店舗が立ち並ぶオパール街に対し、裏手にあたる店はどこか影のあるようなものが多かった。客にしても身なりの良いような者は珍しく、かといって|見窄《みすぼ》らしいわけでもない。
 彼はここでは多少浮いてはいたが、構わず裏通りを進んでいく。
「結構|場末《ばすえ》ですね」
 ブレダは周囲を気にしながら上官に声をかけた。
「意外っつーか、こういうとこも来るんですね、中佐」
「まあ、たまにな」
 軽口を叩く部下にも、気分を害した様子はない。まあ、ハボックはいつもこんな調子だからだろうが。
「なあ、何なんだよ? 今日は調査なしって話だっただろ?」
 ハボックは、傍のブレダに声と腰を落として訊ねる。彼の言う通り、今夜は上官から直々に「たまには調査抜きで遊びに行こうか」と声がかかり、連れ出されてしまった。彼の言う遊びとやらに特段興味はないが、かといって断固拒否するまでの理由もない。この間まで連日連夜、店を回ったおかげで遊び方というのも薄らとだが把握していた。悪くはないが、夢中になるほどでもない。
「知るかよ。中佐の気まぐれだろ?」
「だからって、何で俺まで」
「新人っつったら、俺とおまえだけだろ」
 ブレダの言葉にハボックは顔をしかめる。新人と言える枠に入っているのは、確かもう一人いたはずだった。
キャロル先生は……無理か」
「そういうこと」
 さすがに女性連れで夜遊びというのは、聞いたことがない。それに彼女がここにいたとして、居心地が悪くなるのは二人の方だろう。
「行くぞ」
 上官からかけられた声に、ブレダは同期の背中を小突いた。
「あー、はいはい」
 辟易として答えたハボックは、慌てて上官を追った。倣ってブレダも続く。

 少し歩いたところに佇んでいる店は、どうしても地味な印象が拭えない。煌びやかなバーとは趣が違うようだった。その店の前で立ち止まったロイは、何も言わずにドアを開ける。
「いらっしゃーい」
 陽気だが気の抜けたような声がして、ブレダの緊張は幾分和らいでいた。上官に続いて足を踏み入れると、質素ではあるが清潔感のある内装が目に入る。カウンターの中からひらひらと手を振っているのは、店の装いとは真逆に派手な格好をした女性だった。化粧のせいで年齢が分かりにくいが、それなりに若いように見える。
「って、やだ。ロイ!」
 振っていた手を止め、女性はロイを指差す。
「やあ、久しぶりだね。カティ」
「ホントよ! 偉くなっちゃってー」
 カウンターに両肘をつき馴れ馴れしく応じる女性とロイの関係性は見えなかったが、知らぬ仲というわけではないというのは分かる。上官の顔つきは、すっかり|形《なり》を|潜《ひそ》めてしまっていた。
「もう相手してくれないかと思った」
 ロイは冗談を言う女性に苦笑しながら、慣れたようにカウンターの席へ座る。慌てて、部下二人もそれに倣って両脇に着席した。
「まさか。君のことを忘れたことなんてなかったよ」
「ホントかなあ」
 親密そうなやりとりに、部下であることを思い出して居た堪れなくなる。
「えっと、あのう」
 口火を切ったのはハボックの方だった。
「お知り合い?」
 ロイと女性を交互に見て訊ねるハボックに、女性の方が苦笑する。
「お知り合いっていうか」
 うーん、と首を捻った女性は、やがて悪戯っぽく笑みを変える。
「知り尽くしてる仲っていうか」
「カティ」
 上官の顔になったロイは、それらしく咳払いをして女性の言葉を遮った。
「二人とも、私の部下だ。ハボック少尉にブレダ少尉」
 飲み屋の女性に対しては、少し固いような紹介の仕方だ。
「あ、そうなんだ。どもー」
「ど、どもー」
 ハボックはつられて女性と似たような調子で応じる。
「あたし、カトリーナ。カティって呼んでね」
「ええ、ああ、はい……」
 気にした様子のない女性――カトリーナは、そのまま続けた。ブレダにしてみれば、この手合いは苦手だった。同時期に配属された少女医師を彷彿とさせる。子供は何を考えているか分かりづらい上、突拍子もない行動を取るものだから苦手だ。カトリーナの場合は子供ではないが、行動に一貫性がないところはそれらしい。
「ロイとは昔なじみでさ。こいつがこんくらいチビっこい時から面倒見てたんだよ」
 言ってカトリーナは手の平を下に向け、自分の腹あたりに当てる。背丈の話らしい。女性の体格で腹あたりの背というと、だいぶ小さな子供だ。思わず上官を見ると、少し不快そうにしていた。
「姉のような人だ」
 それだけ言うと、彼は小さくため息をついた。
「あ、そういうことだったんですね。俺はてっきり元彼女とかかと」
 ハボックの言葉に、カトリーナが高い声で笑う。
「ないない! ロイは、あたしみたいなぶっ飛んだ女と付き合うような度胸ないもん!」
「度胸……」
 ブレダは呟きながら、ぶっ飛んだ女という自覚はあるのか、と考えた。
「それに、あんた昔から金髪好きじゃん。ほら、何だっけ? あんたのお気に入りのチビ姫ちゃん。あの子もドタイプの金髪だったでしょ?」
 確かにカトリーナは栗色の髪をしていて、金髪ではない。だが、ブレダが知る限りではロイの好みが金髪の女性に限るとは思えなかった。確かに彼の部下にいる女性は二人ともに金髪だが。
「それはいいから」
 ロイの反応からすると、それも強ち間違った情報ではないらしい。心底嫌そうだ。
「何ですか? そのチビ姫ちゃんって」
 好奇心から訊ねたハボックに、カトリーナは嬉しそうに答える。
「昔ね、何だかロイに懐いてた女の子がいたのよ。人形みたいな見た目してるの」
「もう、それはいいと言っただろう。酒くらい出してくれ」
 辟易として遮るロイに、カトリーナは面食らった。
「ありゃ。ロイ坊、酒なんて飲めんの?」
「今年で二十四だ」
「あっそ。もうそんなになるっけ?」
「自分の年から十引いて考えてくれよ」
「ロイ」
 途端、カトリーナは低い声で唸るようにした。その反応が良かったのか、ロイは鼻で笑う。
「何だ? 若作りがバレたらまずいのか?」
「覚えとけよ、この野郎」
 舌打ちを残して、カトリーナは背後にある酒瓶の並べられている棚へ向き直った。適当な瓶を一つ手にしてからカウンターへ乱暴に置き、今度はしゃがみ込む。カウンターからは姿がすっかり見えなくなってしまった。
「随分、親しいんですね」
 ブレダが訊ねると、ロイは声を潜めて返す。
「とは言え、彼女は情報屋だ。あまり油断して喋りすぎるなよ」
「そういうことですか……急に飲みに連れてくって言うから、何かと思いましたよ」
 ロイ同様に声をひそめたブレダに、ハボックが眉を寄せる。
「え? どういうこと?」
「仕事だよ、仕事」
 ブレダが返すと、二人は同時に落胆した。タダで酒が飲めるというのには、裏があるらしい。つまり、これも情報収集の一環だというわけだ。それも、上官のお得意先というおまけ付きだ。
「ほいよー、お待たせ」
 現れたカトリーナは、乱暴にグラスを三つ叩きつける。中に入っている液体——色合いからして、恐らくはウイスキーを水で割ったもの——は、それぞれ量がバラバラだった。にも関わらず、何故か色の濃さだけは均一化されている。几帳面であることは伺い知れないが、まるっきり粗雑であるというわけでもないらしい。
「薄い」
 当然のように口をつけたロイが、当然のように評する。
「えっへへー。ちょーっと厳しくてさあ」
 また、あの同期の医師を思い出させるような調子でカトリーナが笑う。ブレダは苦手にしていたが、ロイの方はそうではないらしい。まあ、そうでなければ彼女を自分の側につけようとは思わないわけだから、当然といえばそうだった。薄く笑った上官は、また一口グラスの中の液体を飲み込んでいた。
「カティは商売下手だな。どうせ、こっちでも孤立してるんだろう?」
「どうせ、って何さ!」
 憤慨するカトリーナには、大人の余裕というものが|微塵《みじん》も残っていない。完全に子供の|癇癪《かんしゃく》だ。
「商売を長持ちさせるコツは」
「地に足をつけること、でしょ? マダムから耳にタコできるくらい聞かされたよ」
「なら、後は実践するだけだ」
「ん」
 ロイに嗜められ、カトリーナは一旦口を噤む。どちらが年上か分からないようなやり取りだ。
「こっちに来て、もう一ヶ月になる。私の顔も名もそこそこ売れたと思うが」
 手持ち無沙汰になったブレダが薄いウイスキーを少し飲み込んだ頃合いだった。上官は、声の調子を少し変えていた。
「どうかな? カトレア」
 カトレア、というのは花の名前だったか。この場にファルマンがいればすぐに訊けるが、|然《さ》して重要な情報ではないような気もする。
「知ってるよ、マスタング中佐」
 辟易とした様子でカトリーナがため息をつく。これは、情報屋とのやり取りだ。
「なら、分かるだろう?」
「何がお望みで? サー」
 カトリーナも雰囲気が変わる。おどけた少女のようなものが、狡猾な情報屋と言っても差し支えないほどに変貌していた。これなら会話もできそうだ。
「最近、良いタバコが売れてるって話なんですが」
 ブレダが訊ねると、彼女は微かに眉を寄せた。
「ご存知ないですかね?」
「ふーむ、タバコねえ」
 しばし首を捻った仕草で誤魔化してくれたカトリーナだが、カウンターのどこからか取り出して突き出してみせる。
「これのことかね、青年?」
「それ」
 前のめりになってそれを指差したのは、ハボックだ。
キャロル先生が調べてたやつと同じだ」
 さすがだな、と感心する。正直、タバコの銘柄などホットドッグの違いほど興味があるわけではない。彼らがいつも吸っているタバコの箱とは違う、というくらいは分かるがその程度だ。
 カトリーナは得意満面になってタバコの箱をゆらゆらと揺すった。
「まあ、銘柄は色々あるらしいけどね。どれも同じお薬が入ってるって噂」
「お薬?」
「とーってもハッピーになれるやつ」
「頭悪そうな説明」
 思わず口に出してしまった。が、彼女に不快そうな様子はない。
「小難しく説明したって売れないよ。こういうの欲しがるのは、大体脳みそ腐ってる連中だもん」
 簡潔だが的確だ。一般人がこんな怪しげなタバコを敢えて手に入れようとはしないだろう。一度味わって中毒になってからでないと、商売としては成り立たないはずだ。だが、そうなるとどうも雲行きが怪しくなる。気づいたらしいロイが、タバコの箱に手を伸ばした。
「どこで手に入れた?」
「おーっと、こっからは有料だぜ、ロイちゃん」
 おどけるようにしてロイの手から逃れたカトリーナに、ロイの方は面倒そうに小さく舌打ちする。
「いくらだ?」
「そうねえ。久々のお客さんだし、五は欲しいかな」
「五万か。いいだろう」
 あっさりと頷く上官に待ったをかけようとしたが、カトリーナが首を振って遮った。
「ノン」
 それから彼女は、順番に三人を指差す。
「一人頭五万。かけることの三」
「嘘だろ!? 十五万!?」
 素直に声に出したハボックに、心中で同意する。ふっかけるにしても限度があるだろう。
「嫌ならいいんだよ、別に」
 また年相応とは思えない態度で拗ねてみせるカトリーナに、ブレダがため息をつく。
「どうします、中佐? 別のルートでも」
 小声で上官に訊ねるが、彼は渋い表情で首を横に振った。
「そうなると、情報の真偽性から精査しなくてはならなくなる。カティの情報は信頼できる」
 そのカトリーナの信頼性がこちらにはない。怪しいというのは揺るぎないが、上官に対しては一定の信頼感は持っている。彼がそう言うのであれば、異論があるわけもなかった。
「つっても俺、五万すら持ってないですよ」
 金額の心配をし始めるハボックに、ロイは「馬鹿」と小さく囁いた。
「そんなもの、薄給のおまえたちに払わせるわけないだろう。私が出すに決まっている」
 言っていることは至極上官めいているのだが、薄給だのは事実にしても一言多い。比較対象が中佐であるために、ぐうの音も出ないが。
「カティ」
 やり取りをじっと観察していたカトリーナに、ロイが声をかける。
「あいあい?」
「十五払う。教えてくれ」
 苦渋の表情を浮かべるロイとは対照的に、カトリーナは晴れやかに笑顔を浮かべていた。
「さっすがロイ! いいカモだわあ」
「本人に直接カモとか言うな!」
 渋々財布を取り出したロイは、そこから紙幣を五枚ずつ三回に分けて、一々カトリーナに渡す。受け取ったカトリーナは、都度枚数を数えてから「確かに」とカウンターに置かれている簡易な金庫に仕舞い込んだ。
 それはともかくとして、何故彼はこれほどの額の現金を持ち合わせているのだろうか。考えるほど可能性が膨らんでいくのが怖くて、ブレダは途中でやめてしまった。
「んじゃあ、領収証として、これあげる」
 カトリーナは、例のタバコを軽く放り投げる。慌てて受け取ったロイは、それをそのままハボックへ渡した。
キャロル先生に渡しておいてくれ」
「了解っス」
 いつものように懐へ仕舞い込んだ彼に、ブレダは焦って「間違えて吸うなよ」と小声で伝えた。

2024年1月28日