東方司令部には隙が多いと思っていた。特段治安が悪いわけでもなく、数年前に終結した戦争の後片付けが長引いているわけでもない。言うなれば平和だった。であるが故にできた隙なのだろう。確かに正面や|主《おも》だった出入り口には警備を置いてあるが、細々とした口には最低限の警備しか置いていない。以前直属の上官に指摘したところ、予算不足との回答を得たことがある。予算が回ってこないくらい、ここは平和なのだ、と思った。
これは何も犯罪者へだけの朗報ではない。東方司令部で働く従軍医師たるキャロル・ゴドウィンにとってもそうだった。何せ、彼女はあまり働き者ではなかった。つまり、業務時間をいかにして水増しし、あたかも勤勉に努めているかのように見せかけるのか、というところを重視して職務についている。要は怠け癖だ。愛飲のたばこを片手に、彼女は今日も真っ直ぐに目指していた。すれ違う軍人たちのうち、数人が「キャロル先生、お疲れ様です」と挨拶してくれるのを、適当に応える。司令部内でもあまり人の来ることのない第四資料室なる部屋の奥に、小さなテラスへ出る口があった。キャロルは迷わずその扉を開く。
今日は快晴だ。東部は気候の良い日がなかなか多い。こんな日は、さっさと報告書を書き上げて、外でたばこを|喫《の》むに限る。テラスの手すりにもたれかかり、手早くたばこを一本取りだしてくわえ、着火する。乱雑に白衣のポケットへライターとたばこをしまい込んでから一吸い目を吐き出すと、自然と肩の力が抜けた。至福のひと時だった。はずだ。
「なあ、常々思うんだが」
「うわっ!?」
背後からの声に驚いて軽く飛び上がってしまった。慌てて振り返ったキャロルの視界に入ったのは、怪訝な顔をした直属上官であるロイ・マスタング大佐が静かに扉を閉めにかかっているところだった。
「何だ、ロイか……びっくりした」
つぶやいてから、キャロルはしまった、と後悔した。司令部内で上官をファーストネームで呼ぶことは厳禁だったはずだ。しかし、彼は気づいているのかいないのか、キャロルに近寄りながらため息をつく。
「君、私と行動範囲が被りすぎだろう」
しれっとキャロルの隣で手すりに体を預け、ロイは横目でこちらを軽く睨んでくる。つまり彼もサボりに、この格好の場所を選定したわけだ。まあ、時間差からしてキャロルの後をつけてきたというのが本当のところだろうが。彼が仕事をサボって|呆《ほう》けていられる場所など、恐らく彼の副官によってほとんどつぶされているはずだ。だからこそ、副官の|警戒《マーク》が及ばないキャロルのサボり場所を間借りしようと|尾行《つけ》てきたのだろう。短い付き合いではないだけに、大体理解できてしまう。
「知らないよ。サボり場なんてそうないから、被るのも仕方ないんじゃないの?」
「そういうものか?」
かまをかけたところで、ロイはしれっと答える。わざとらしい、と思ったが、鼻で笑ってやった。
「じゃなきゃ、あんたかあたしのどっちかが超能力者か」
煙を吐き出すために顔をそらす。視線をロイに戻すと、小馬鹿にしたように笑われていた。
「面白い冗談だな。君が錬金術師だから、尚の事」
「何言ってんだか……」
面白い、と評しておきながら、彼は心底可笑しいというようには笑わなかった。錬金術師はオカルトを信じない。超能力なんて以ての外だ。キャロルが幼い頃、まだ少年だったロイがそう言っていたのを思い出す。
「っていうか、今日までの書類が溜まってるってリザが朝言ってなかった?」
水を向けると、途端ロイは渋い顔をする。副官の小言を思い出したのだろう。
「その通りだ」
「いや、威張って肯定されても……終わったの?」
「まさか」
子供っぽい仕草で、そっぽを向く。
「休憩中だ、休憩中」
言い訳まで子供のようになってしまったロイに、キャロルは呆れ返った。子供の頃からの知り合いだが、大人になってもあまり顔に変化のない彼が子供っぽい仕草をすると、何となく|居《い》た|堪《たま》れなくなる。居心地が悪くなり、吸った煙を吐き出す。
「いいものを吸っているね」
ロイはキャロルの手にあるたばこの箱を指さしてから、手のひらを皿のようにして差し出す。一本寄越せ、ということだ。常飲していないくせに、誰かが吸っていると大体一本くれと催促してくる。この間は、ハボック少尉が犠牲になっているのを見かけた。素直にくれと言ってくれればいいのに、と常々思う。
「おねだり下手かよ。はい」
箱ごと差し出して軽く振る。飛び出た一本をつまみあげ、くわえてから彼は|徐《おもむろ》に屈みこんだ。また無言で催促している。火をくれ、ということだ。手に持っていたたばこをくわえ、火を出してからライターをロイに向けた。
「ああ、悪いな」
慣れた仕草でたばこを吸い、これまた慣れたように眉を寄せる。キャロルのたばこはきつすぎる、といつも彼が評していた。
「キャロル」
「何?」
また小言か、と構えて訊ねると、ロイは今度は可笑しそうに笑った。
「いや、呼んだだけだ」
「何なんだよ!」
多少苛ついて声を荒らげる。それが大層お気に召したらしく、ロイは満足げにキャロルの頭を軽くたたいた。
「そう噛みつくな。可愛い部下との親睦の場だろう」
はた、とキャロルは首を傾げる。
「部下ねえ」
「何だ」
キャロルの意図を読み切れないのか、ロイが聞き返す。
「いや。マスタング大佐はお疲れなのかなーって思って」
「年寄り扱いするな」
とんちんかんな反論に、キャロルは苦笑した。
「部下だって言う割に、あたしがロイって呼んだのは|窘《たしな》めないのね」
先ほど、彼の姿を確認した際に思わず出てしまった、彼の呼称だ。キャロルもうっかりしていたが、お咎めがなかったというのはロイも同様だったかららしい。
「そうか?」
「そうだよ」
思い出そうと頑張っている様子だが、ついに彼は煙を吐き出して観念した。
「休憩中は無礼講だ」
「なるほどねえ」
体のいい言い訳に、キャロルは素直に感心する。
「それとも」
ロイはキャロルの髪を優しく撫で付け、それから頬に手をやる。
「部下扱いはお気に召さないかな?」
手のひらは頬に当てたまま、指先で顎を押し上げる。見上げる形になったが、身長差があるおかげでロイと目が合う。多少どきりとはしたが、恐らく常套手段なのだろうと思いなおすと平静でいられる。気のないくせに、この程度なら難なくやってのけるところが嫌いだ。キャロルは眉根を寄せて言い放つ。
「関係性なんてどうだっていいよ」
ロイの手を振り払い、たばこを一吸いした。
「あんたがあんたで、あんたの傍にあたしがいられるのなら、それで十分」
半分は本音で、半分は照れ隠しだった。煙を吐くついでに顔をそらす。本当は部下扱いなんて望んでいなかったけれど、それで傍にいられるのなら構わない。と言うと、ロイはどんな顔をするのかも興味はあったが、大抵は困らせるだけなので我慢しておく。
「欲のない奴だな」
ややあってから、ロイががっかりしたような声で呟いた。
「えー。これ以上ないくらい欲張りだと思うけどなあ」
口を開いて笑い声を立てると、彼は不思議そうにキャロルの顔を覗き込んでくる。たばこを持っている方の手で彼の眼前に指を突きつけて、
「ロイ・マスタングの傍にずっといたい、っつってんだよ。贅沢でしょ」
と宣言してやった。一々説明しないと分からないのか、それともわざとなのか。面食らったような顔になったロイは、すぐにたばこをくわえ、
「生意気な」
キャロルの顔に向かって煙を吹き付ける。文句を言おうとしたが、さっさと頭を押さえられてしまった。
「君が私を評価できる立場かね」
そのままめちゃくちゃに頭を撫でられる。髪がボサボサになるまで、しつこくかき回された。彼の表情は見えないが、恐らくはキャロルに見せられないような表情をしているはずだ。ロイの手を乱雑に振り払い、彼の顔を覗き見る。
「うわ、嬉しそうに」
「勝手に言っていろ、馬鹿者が」
精一杯年長者として振る舞うのが可笑しくて小さく笑うと、再び煙を吹き付けられた。今度は短く「ちょっと!」と文句を言ってから煙を手で払う。もう少しロイと話していたかったが、煙たいのは勘弁願いたい。
「ところで、いつ頃あんたは大佐に戻るの?」
煙を払いながら訊ねると、ロイは面倒そうに手すりへもたれかかる。
「そうだな」
青い空に昇っていく煙を視線で追いかけて、彼の答えを待つ。何だか|気障《きざ》ったらしいことでも言いそうな予感があった。
「この灰が落ちるまでは、君とこうしていたい」
キャロルのものより幾分長いたばこを軽く振って、ロイは事もなげに答える。やっぱりか、と内心で呆れた。そもそも、先程部下と称した人間を口説こうとする根性には恐れ入る。
「いやー、それより早い気がするな」
煙を吐きながら、キャロルは顎で扉を示した。
「何がだ?」
ロイがつられてそちらを向いた瞬間、タイミングよく扉が開く。果たして現れた彼の副官たるリザ・ホークアイ中尉は、上官の姿を見つけるとにじり寄ってくる。
「大佐! こちらでしたか」
とはいえ、彼女の方も探し回ったという体ではない。腕には少々の書類を抱え、それらは乱れていなかった。
「なるほど」
「何が、なるほど、ですか! 朝のうちに申し上げましたよね、今日中にお願いします、と」
呑気なロイとは対照的に、リザは一気にまくしたてる。
「戻っていただかなくては、困ります!」
彼女は一気に言い切った後、抱えていた書類をロイに押し付ける。
「強制終了〜。お疲れ様! たーいさっ」
最後の一吸いの後、吸い殻をぎゅうぎゅうに踏みつけてキャロルは歌うように言った。
「まさか……」
受け取り損ねた数枚をはらはらと取りこぼしながら、ロイはリザとキャロルを交互に見る。さすがにここまで予定調和であれば気づくだろう。
「君ら、|謀《はか》ったな!?」
「いいえ。私は事前にキャロが休憩所として選定した場所を教えてもらっていただけですよ」
リザが上官同様しれっと言い放つ。彼女の場合、嘘はついていない。余計な話はしないだけだ。確かにサボり癖のあるロイを捕らえるために策を練ったが、リザの担当はキャロルが誘いこんだこの場所に乗り込むことだけだった。
「偶然、大佐がこちらにいらしたのかと」
誘いこむにしても、確実性には欠けていた。偶然、という言い分もあながち間違ってはいない。さすがにこれは苦しいと思ったのか、|訝《いぶか》るロイの視線には耐え切れずに視線をそらしていた。
「そんなことよりも、戻って仕事をしましょう」
リザはしゃがみ込み、ロイの落とした書類数枚を拾い上げる。
「そうそう、仕事、仕事! いっそがしーんだもんねえ、大佐」
散らばった書類のうちの一枚を、キャロルが拾い上げてロイに突きつける。
「今日中に大佐の|印《ハンコ》貰わないと、あたし報告書書き直しになるんだよねー」
ロイは、眼前でひらひらと舞うキャロルの報告書を睨みつけ、それから引っ手繰った。むくれて「分かっている」とつぶやくのも忘れない。ちゃんとしてよ上官殿、という言葉は直前で飲み込んだ。リザが咳ばらいをしたからだ。
「その他|方々《ほうぼう》へ迷惑になりますから」
「分かった! 分かった!」
観念してうなだれたロイと同時に、彼の持っていたたばこから灰が落ちる。なるほど、灰が落ちるまでが休憩時間だったはずだ。先導するリザの後を追ってとぼとぼと歩いていく上官の姿を見送ってから、キャロルはもう一本たばこを取り出した。快晴の空の下、仕事も上官もやっつけた後で吸うたばこの何と美味いことだろうか。
この数分後、したり顔で戻ってきたマスタング大佐が「書類不備だ」という台詞を吐くまでが、キャロル・ゴドウィンに与えられた休憩時間だった。
#鋼の錬金術師 #ロイ
これは何も犯罪者へだけの朗報ではない。東方司令部で働く従軍医師たるキャロル・ゴドウィンにとってもそうだった。何せ、彼女はあまり働き者ではなかった。つまり、業務時間をいかにして水増しし、あたかも勤勉に努めているかのように見せかけるのか、というところを重視して職務についている。要は怠け癖だ。愛飲のたばこを片手に、彼女は今日も真っ直ぐに目指していた。すれ違う軍人たちのうち、数人が「キャロル先生、お疲れ様です」と挨拶してくれるのを、適当に応える。司令部内でもあまり人の来ることのない第四資料室なる部屋の奥に、小さなテラスへ出る口があった。キャロルは迷わずその扉を開く。
今日は快晴だ。東部は気候の良い日がなかなか多い。こんな日は、さっさと報告書を書き上げて、外でたばこを|喫《の》むに限る。テラスの手すりにもたれかかり、手早くたばこを一本取りだしてくわえ、着火する。乱雑に白衣のポケットへライターとたばこをしまい込んでから一吸い目を吐き出すと、自然と肩の力が抜けた。至福のひと時だった。はずだ。
「なあ、常々思うんだが」
「うわっ!?」
背後からの声に驚いて軽く飛び上がってしまった。慌てて振り返ったキャロルの視界に入ったのは、怪訝な顔をした直属上官であるロイ・マスタング大佐が静かに扉を閉めにかかっているところだった。
「何だ、ロイか……びっくりした」
つぶやいてから、キャロルはしまった、と後悔した。司令部内で上官をファーストネームで呼ぶことは厳禁だったはずだ。しかし、彼は気づいているのかいないのか、キャロルに近寄りながらため息をつく。
「君、私と行動範囲が被りすぎだろう」
しれっとキャロルの隣で手すりに体を預け、ロイは横目でこちらを軽く睨んでくる。つまり彼もサボりに、この格好の場所を選定したわけだ。まあ、時間差からしてキャロルの後をつけてきたというのが本当のところだろうが。彼が仕事をサボって|呆《ほう》けていられる場所など、恐らく彼の副官によってほとんどつぶされているはずだ。だからこそ、副官の|警戒《マーク》が及ばないキャロルのサボり場所を間借りしようと|尾行《つけ》てきたのだろう。短い付き合いではないだけに、大体理解できてしまう。
「知らないよ。サボり場なんてそうないから、被るのも仕方ないんじゃないの?」
「そういうものか?」
かまをかけたところで、ロイはしれっと答える。わざとらしい、と思ったが、鼻で笑ってやった。
「じゃなきゃ、あんたかあたしのどっちかが超能力者か」
煙を吐き出すために顔をそらす。視線をロイに戻すと、小馬鹿にしたように笑われていた。
「面白い冗談だな。君が錬金術師だから、尚の事」
「何言ってんだか……」
面白い、と評しておきながら、彼は心底可笑しいというようには笑わなかった。錬金術師はオカルトを信じない。超能力なんて以ての外だ。キャロルが幼い頃、まだ少年だったロイがそう言っていたのを思い出す。
「っていうか、今日までの書類が溜まってるってリザが朝言ってなかった?」
水を向けると、途端ロイは渋い顔をする。副官の小言を思い出したのだろう。
「その通りだ」
「いや、威張って肯定されても……終わったの?」
「まさか」
子供っぽい仕草で、そっぽを向く。
「休憩中だ、休憩中」
言い訳まで子供のようになってしまったロイに、キャロルは呆れ返った。子供の頃からの知り合いだが、大人になってもあまり顔に変化のない彼が子供っぽい仕草をすると、何となく|居《い》た|堪《たま》れなくなる。居心地が悪くなり、吸った煙を吐き出す。
「いいものを吸っているね」
ロイはキャロルの手にあるたばこの箱を指さしてから、手のひらを皿のようにして差し出す。一本寄越せ、ということだ。常飲していないくせに、誰かが吸っていると大体一本くれと催促してくる。この間は、ハボック少尉が犠牲になっているのを見かけた。素直にくれと言ってくれればいいのに、と常々思う。
「おねだり下手かよ。はい」
箱ごと差し出して軽く振る。飛び出た一本をつまみあげ、くわえてから彼は|徐《おもむろ》に屈みこんだ。また無言で催促している。火をくれ、ということだ。手に持っていたたばこをくわえ、火を出してからライターをロイに向けた。
「ああ、悪いな」
慣れた仕草でたばこを吸い、これまた慣れたように眉を寄せる。キャロルのたばこはきつすぎる、といつも彼が評していた。
「キャロル」
「何?」
また小言か、と構えて訊ねると、ロイは今度は可笑しそうに笑った。
「いや、呼んだだけだ」
「何なんだよ!」
多少苛ついて声を荒らげる。それが大層お気に召したらしく、ロイは満足げにキャロルの頭を軽くたたいた。
「そう噛みつくな。可愛い部下との親睦の場だろう」
はた、とキャロルは首を傾げる。
「部下ねえ」
「何だ」
キャロルの意図を読み切れないのか、ロイが聞き返す。
「いや。マスタング大佐はお疲れなのかなーって思って」
「年寄り扱いするな」
とんちんかんな反論に、キャロルは苦笑した。
「部下だって言う割に、あたしがロイって呼んだのは|窘《たしな》めないのね」
先ほど、彼の姿を確認した際に思わず出てしまった、彼の呼称だ。キャロルもうっかりしていたが、お咎めがなかったというのはロイも同様だったかららしい。
「そうか?」
「そうだよ」
思い出そうと頑張っている様子だが、ついに彼は煙を吐き出して観念した。
「休憩中は無礼講だ」
「なるほどねえ」
体のいい言い訳に、キャロルは素直に感心する。
「それとも」
ロイはキャロルの髪を優しく撫で付け、それから頬に手をやる。
「部下扱いはお気に召さないかな?」
手のひらは頬に当てたまま、指先で顎を押し上げる。見上げる形になったが、身長差があるおかげでロイと目が合う。多少どきりとはしたが、恐らく常套手段なのだろうと思いなおすと平静でいられる。気のないくせに、この程度なら難なくやってのけるところが嫌いだ。キャロルは眉根を寄せて言い放つ。
「関係性なんてどうだっていいよ」
ロイの手を振り払い、たばこを一吸いした。
「あんたがあんたで、あんたの傍にあたしがいられるのなら、それで十分」
半分は本音で、半分は照れ隠しだった。煙を吐くついでに顔をそらす。本当は部下扱いなんて望んでいなかったけれど、それで傍にいられるのなら構わない。と言うと、ロイはどんな顔をするのかも興味はあったが、大抵は困らせるだけなので我慢しておく。
「欲のない奴だな」
ややあってから、ロイががっかりしたような声で呟いた。
「えー。これ以上ないくらい欲張りだと思うけどなあ」
口を開いて笑い声を立てると、彼は不思議そうにキャロルの顔を覗き込んでくる。たばこを持っている方の手で彼の眼前に指を突きつけて、
「ロイ・マスタングの傍にずっといたい、っつってんだよ。贅沢でしょ」
と宣言してやった。一々説明しないと分からないのか、それともわざとなのか。面食らったような顔になったロイは、すぐにたばこをくわえ、
「生意気な」
キャロルの顔に向かって煙を吹き付ける。文句を言おうとしたが、さっさと頭を押さえられてしまった。
「君が私を評価できる立場かね」
そのままめちゃくちゃに頭を撫でられる。髪がボサボサになるまで、しつこくかき回された。彼の表情は見えないが、恐らくはキャロルに見せられないような表情をしているはずだ。ロイの手を乱雑に振り払い、彼の顔を覗き見る。
「うわ、嬉しそうに」
「勝手に言っていろ、馬鹿者が」
精一杯年長者として振る舞うのが可笑しくて小さく笑うと、再び煙を吹き付けられた。今度は短く「ちょっと!」と文句を言ってから煙を手で払う。もう少しロイと話していたかったが、煙たいのは勘弁願いたい。
「ところで、いつ頃あんたは大佐に戻るの?」
煙を払いながら訊ねると、ロイは面倒そうに手すりへもたれかかる。
「そうだな」
青い空に昇っていく煙を視線で追いかけて、彼の答えを待つ。何だか|気障《きざ》ったらしいことでも言いそうな予感があった。
「この灰が落ちるまでは、君とこうしていたい」
キャロルのものより幾分長いたばこを軽く振って、ロイは事もなげに答える。やっぱりか、と内心で呆れた。そもそも、先程部下と称した人間を口説こうとする根性には恐れ入る。
「いやー、それより早い気がするな」
煙を吐きながら、キャロルは顎で扉を示した。
「何がだ?」
ロイがつられてそちらを向いた瞬間、タイミングよく扉が開く。果たして現れた彼の副官たるリザ・ホークアイ中尉は、上官の姿を見つけるとにじり寄ってくる。
「大佐! こちらでしたか」
とはいえ、彼女の方も探し回ったという体ではない。腕には少々の書類を抱え、それらは乱れていなかった。
「なるほど」
「何が、なるほど、ですか! 朝のうちに申し上げましたよね、今日中にお願いします、と」
呑気なロイとは対照的に、リザは一気にまくしたてる。
「戻っていただかなくては、困ります!」
彼女は一気に言い切った後、抱えていた書類をロイに押し付ける。
「強制終了〜。お疲れ様! たーいさっ」
最後の一吸いの後、吸い殻をぎゅうぎゅうに踏みつけてキャロルは歌うように言った。
「まさか……」
受け取り損ねた数枚をはらはらと取りこぼしながら、ロイはリザとキャロルを交互に見る。さすがにここまで予定調和であれば気づくだろう。
「君ら、|謀《はか》ったな!?」
「いいえ。私は事前にキャロが休憩所として選定した場所を教えてもらっていただけですよ」
リザが上官同様しれっと言い放つ。彼女の場合、嘘はついていない。余計な話はしないだけだ。確かにサボり癖のあるロイを捕らえるために策を練ったが、リザの担当はキャロルが誘いこんだこの場所に乗り込むことだけだった。
「偶然、大佐がこちらにいらしたのかと」
誘いこむにしても、確実性には欠けていた。偶然、という言い分もあながち間違ってはいない。さすがにこれは苦しいと思ったのか、|訝《いぶか》るロイの視線には耐え切れずに視線をそらしていた。
「そんなことよりも、戻って仕事をしましょう」
リザはしゃがみ込み、ロイの落とした書類数枚を拾い上げる。
「そうそう、仕事、仕事! いっそがしーんだもんねえ、大佐」
散らばった書類のうちの一枚を、キャロルが拾い上げてロイに突きつける。
「今日中に大佐の|印《ハンコ》貰わないと、あたし報告書書き直しになるんだよねー」
ロイは、眼前でひらひらと舞うキャロルの報告書を睨みつけ、それから引っ手繰った。むくれて「分かっている」とつぶやくのも忘れない。ちゃんとしてよ上官殿、という言葉は直前で飲み込んだ。リザが咳ばらいをしたからだ。
「その他|方々《ほうぼう》へ迷惑になりますから」
「分かった! 分かった!」
観念してうなだれたロイと同時に、彼の持っていたたばこから灰が落ちる。なるほど、灰が落ちるまでが休憩時間だったはずだ。先導するリザの後を追ってとぼとぼと歩いていく上官の姿を見送ってから、キャロルはもう一本たばこを取り出した。快晴の空の下、仕事も上官もやっつけた後で吸うたばこの何と美味いことだろうか。
この数分後、したり顔で戻ってきたマスタング大佐が「書類不備だ」という台詞を吐くまでが、キャロル・ゴドウィンに与えられた休憩時間だった。
#鋼の錬金術師 #ロイ