「おい、ヒューバート。ヒューバート!!」
大声で我に返ると、窓の外の景色が一気に流れ込んでくる。慌てて、声のした方を向いた。
「わっ!? な、何ですか、耳元で大声を出して!」
「何度呼んでも返事をしないからだ」
腕組みをしてむくれているのは、ヒューバートの兄であるアスベルだった。ラントを離れている間は7年間で、彼と再会したのは少し前だった。幼少の頃と比べると随分挙動が落ち着いたものだが、やはり根本的に変わったようではないらしい。ヒューバートの年齢から数えると兄は19歳のはずだが、時々幼さの残る言動が見受けられる。まだ痺れている耳を摩り、アスベルを睨みつける。
「何か、用事でも?」
「何か、はないだろ。急に訪ねてきたのは、そっちじゃないか。まあ、別に用事があろうとなかろうと、訪ねてこられる内に来てくれるのは嬉しいけどさ」
呆れたようにそれだけ言うと、アスベルは執務室に据えられている机へと戻って行く。その上にはだらしなく書類が散らかっていて、そのどれにも領主の認印がされていなかった。一つため息を吐いてから、兄の後を追う。
「何も用事がなくて、貴重な休暇を消費してまでここには来ませんよ」
「だろうな。おまえなら、そう言うと思ったよ」
兄と向かいになるような位置に立ち、椅子に腰掛けたアスベルを見下ろす形になった。苦笑した兄は、本当に暢気だと思った。先ほど母から聞かされた話で頭がいっぱいになっていたヒューバートを構う暇があるのなら、書類に印でもついておけばいいのに。それを指摘する気にもなれず、ヒューバートは踵を返した。
「おい、どこへ行くんだ?」
「少し、散歩です」
アスベルに構わず歩を進める。
「用事はどうしたんだ?」
少し焦ったようなアスベルに、諦めて足を止めた。
「兄さんには仕事が残っているでしょう。片付いてからでいいです。っていうか、片付いてからじゃないと話せません」
「何だよ、それ」
「やるべきことは、きちんとやってください。領主でしょう」
振り返って言うと、さすがに諦めたのか、アスベルは渋々といったように印に手を伸ばす。
「分かってるよ……」
しおれてしまった兄の姿に、何故だかこちらが罪悪感を抱いてしまう。本当に、心から悄気ているのが分かるだけに、落ち着かないのだ。いや、だがここで甘やかすわけにはいかない。もう、彼はヒューバートの兄というより、ラントの領主なのだから、しっかりしてもらわないと困る。いつでも、兄の手助けができるわけではないのだ。
「行きますか、散歩?」
「いいのか?」
ぱっと顔を上げたアスベルは、心底喜んだような表情を見せてくれる。言ってしまった、と後悔したがもう遅い。
「不満顔で残って仕事をしても、効率は上がらないでしょうから」
適当な言い訳を自分にすると、今度こそ踵を返した。後ろからバタバタと音がしたので、歩を緩める。
いつもの街並に、いつもの領民のはずだ。そこに自分がいなかっただけで、きっとここに暮らす彼らにとっては何の変哲もない空気なのだろう。違和感があるのは、離れていた時間のせいか。
「懐かしいような、変わったような……不思議な感覚ですね」
ぽつりと零すと、並んで歩いていたアスベルが苦笑する。
「街並か。そうだな……俺も離れていた時期があるから、分かる気がするよ」
この違和感を覚えていたのが自分だけではなくて、少し安堵した。と同時に、随分鋭くなった、と兄に感心すらしていた。昔は、きっとこんなぼやかした言い方では分かってもらえていなかっただろう。
「昔考えていたことが、今思い出せなくて困っているんです」
甘えてつい続けると、今度はアスベルも首を傾げる。
「何だ?」
「子供の頃、何を考えていたか克明に思い出せますか?」
兄の方を見ると、片方だけ自分とは違う色をした瞳と目が合う。困ったように頬を掻いた彼は、ヒューバートから視線を外す。
「それは……確かに、難しいけど」
「子供の頃に気づけなかったことを、今気づけるんでしょうか」
まさか、思いも寄らなかった展開だった。幼い頃から、何か隠している節はあったが、それがヒューバートに関することであるとは、思っていなかった。いや、全く思わなかったかといえば、それも嘘になる。多少は疑った部分がないではなかった。けれど、彼女はいつでもヒューバートの味方だと言い続けてきた。言葉だけではなく、行動でもそれを示す。そこに、打算があったとは到底思えない。それも、そうであってほしいという希望なのだろうか。
「待て、待て。話が見えない。何の話をしてるんだ、おまえ?」
慌てて手を振るアスベルを一瞥してから、すっと視線を外す。偶然だが、ラントの風車が目に入ってきた。
「別に、兄さんに言って分かるように話していませんから」
「独り言か」
「そんなようなものです」
それで納得いくのかと、自分でも呆れるくらいの言い分で兄を黙らせる。
「ぼくは、本当に彼女がぼくを利用するつもりだったのなら、最初から情を移すような発言はするはずがないと思っているんです」
それは言い訳だ。疑わしい点なんてないと、自分自身に言い聞かせるためのこじつけだった。口にしてから未練がましい想いに気がつく。鬱陶しいそれにため息をつくと、傍らの兄が怪訝に首を傾げた。
「え?」
「だから、独り言です」
改めて言うと、彼は「ああ、そうか」と苦笑いを寄越した。水を差された形にはなったが、それが却って良かったのかもしれない。突き詰めるよりも、一度立ち止まって振り返った方が冷静になれる。
「彼女の言葉を疑ったことは何度もあるけど、彼女の心を疑ったことはないんです。だから、困るというか……」
本心そのものを吐き出すと、ふと自嘲に似た思いがこみ上げてくる。
「自分でも、どうしてここまで肩入れしてしまうのか、不思議でならないんですけど」
呟くようにして言うと、脳裏に彼女の顔が浮かぶ。初めて会った時に見せた笑顔、軍学校に通うことになったと報告した時のしたり顔、ヒューバートの部隊に配属になったと言った時の嬉しそうな顔、軍から追われる羽目になった事件で見せた意思の強い凛とした顔、それから、幼い自分に逃げろと言った血まみれの顔。そのどれもが、ヒューバートに向けた表情だ。嘘だったとは言わせたくない。
「それは、おまえが彼女のことを心から信頼してるからだろ」
ふと、傍らの兄を睨むようにして見る。
「でも、疑っているんですよ」
「それでも、本心はそうじゃないって信じてるんだろ? 良く知ってるから、こそだ」
見透かされている気がした。何だか無性に悔しい。ついと視線を逸らし、自分でも八つ当たりと思うような言葉を返す。
「兄さんは、考えが甘いんですよ。何でもかんでも信用していたら、いつか背後から刺されます」
「その時は、その時だ。俺の見る目がなかった、罰とでも思えば良い」
「それで悲しむのは、兄さんじゃなくて周囲の方なんですけどね」
「それでも、疑ってばかりよりかは良いと俺は思う」
苦笑した兄を見ると、彼は徐にヒューバートの肩を掴む。
「慎重になるのは、俺じゃなくていいだろ?」
今は彼の側にいない弟のことを、言っているのだろうか。離れた場所で暮らしていて、四六時中見張っているわけでもないのに、どう慎重になれというのか。
「また、そんなことを言って……」
呆れてため息をつくと、アスベルは手を引く。
「おまえだって、少しくらい信用しきってしまえる人がいて良いと思う。それが彼女なんだって、俺も思うよ」
随分とはっきり物を言うアスベルに、堪らず俯く。多分、多少頬が赤いと思う。恐らくヒューバートの内心など、彼にはかけらも分かっていないだろうから、抗議をするわけにもいかない。はがゆくて、吐き捨てるように言った。
「何も知らないくせに」
「何も知らないわけじゃない」
緩慢に首を振ったアスベルは、少しだけ遠くを見つめるように、視線をヒューバートから外して言った。
「一緒に旅をしただろ?」
自信満々に言い切るアスベルに、その程度で何が分かるのかと言いかけた。アスベルよりも多くの時間をメグと過ごしてきたのは自分だ。それを全て言ってしまわなかったのは、まるで嫉妬みたいな言い分だったからだ。
#TOG #-第一話
大声で我に返ると、窓の外の景色が一気に流れ込んでくる。慌てて、声のした方を向いた。
「わっ!? な、何ですか、耳元で大声を出して!」
「何度呼んでも返事をしないからだ」
腕組みをしてむくれているのは、ヒューバートの兄であるアスベルだった。ラントを離れている間は7年間で、彼と再会したのは少し前だった。幼少の頃と比べると随分挙動が落ち着いたものだが、やはり根本的に変わったようではないらしい。ヒューバートの年齢から数えると兄は19歳のはずだが、時々幼さの残る言動が見受けられる。まだ痺れている耳を摩り、アスベルを睨みつける。
「何か、用事でも?」
「何か、はないだろ。急に訪ねてきたのは、そっちじゃないか。まあ、別に用事があろうとなかろうと、訪ねてこられる内に来てくれるのは嬉しいけどさ」
呆れたようにそれだけ言うと、アスベルは執務室に据えられている机へと戻って行く。その上にはだらしなく書類が散らかっていて、そのどれにも領主の認印がされていなかった。一つため息を吐いてから、兄の後を追う。
「何も用事がなくて、貴重な休暇を消費してまでここには来ませんよ」
「だろうな。おまえなら、そう言うと思ったよ」
兄と向かいになるような位置に立ち、椅子に腰掛けたアスベルを見下ろす形になった。苦笑した兄は、本当に暢気だと思った。先ほど母から聞かされた話で頭がいっぱいになっていたヒューバートを構う暇があるのなら、書類に印でもついておけばいいのに。それを指摘する気にもなれず、ヒューバートは踵を返した。
「おい、どこへ行くんだ?」
「少し、散歩です」
アスベルに構わず歩を進める。
「用事はどうしたんだ?」
少し焦ったようなアスベルに、諦めて足を止めた。
「兄さんには仕事が残っているでしょう。片付いてからでいいです。っていうか、片付いてからじゃないと話せません」
「何だよ、それ」
「やるべきことは、きちんとやってください。領主でしょう」
振り返って言うと、さすがに諦めたのか、アスベルは渋々といったように印に手を伸ばす。
「分かってるよ……」
しおれてしまった兄の姿に、何故だかこちらが罪悪感を抱いてしまう。本当に、心から悄気ているのが分かるだけに、落ち着かないのだ。いや、だがここで甘やかすわけにはいかない。もう、彼はヒューバートの兄というより、ラントの領主なのだから、しっかりしてもらわないと困る。いつでも、兄の手助けができるわけではないのだ。
「行きますか、散歩?」
「いいのか?」
ぱっと顔を上げたアスベルは、心底喜んだような表情を見せてくれる。言ってしまった、と後悔したがもう遅い。
「不満顔で残って仕事をしても、効率は上がらないでしょうから」
適当な言い訳を自分にすると、今度こそ踵を返した。後ろからバタバタと音がしたので、歩を緩める。
いつもの街並に、いつもの領民のはずだ。そこに自分がいなかっただけで、きっとここに暮らす彼らにとっては何の変哲もない空気なのだろう。違和感があるのは、離れていた時間のせいか。
「懐かしいような、変わったような……不思議な感覚ですね」
ぽつりと零すと、並んで歩いていたアスベルが苦笑する。
「街並か。そうだな……俺も離れていた時期があるから、分かる気がするよ」
この違和感を覚えていたのが自分だけではなくて、少し安堵した。と同時に、随分鋭くなった、と兄に感心すらしていた。昔は、きっとこんなぼやかした言い方では分かってもらえていなかっただろう。
「昔考えていたことが、今思い出せなくて困っているんです」
甘えてつい続けると、今度はアスベルも首を傾げる。
「何だ?」
「子供の頃、何を考えていたか克明に思い出せますか?」
兄の方を見ると、片方だけ自分とは違う色をした瞳と目が合う。困ったように頬を掻いた彼は、ヒューバートから視線を外す。
「それは……確かに、難しいけど」
「子供の頃に気づけなかったことを、今気づけるんでしょうか」
まさか、思いも寄らなかった展開だった。幼い頃から、何か隠している節はあったが、それがヒューバートに関することであるとは、思っていなかった。いや、全く思わなかったかといえば、それも嘘になる。多少は疑った部分がないではなかった。けれど、彼女はいつでもヒューバートの味方だと言い続けてきた。言葉だけではなく、行動でもそれを示す。そこに、打算があったとは到底思えない。それも、そうであってほしいという希望なのだろうか。
「待て、待て。話が見えない。何の話をしてるんだ、おまえ?」
慌てて手を振るアスベルを一瞥してから、すっと視線を外す。偶然だが、ラントの風車が目に入ってきた。
「別に、兄さんに言って分かるように話していませんから」
「独り言か」
「そんなようなものです」
それで納得いくのかと、自分でも呆れるくらいの言い分で兄を黙らせる。
「ぼくは、本当に彼女がぼくを利用するつもりだったのなら、最初から情を移すような発言はするはずがないと思っているんです」
それは言い訳だ。疑わしい点なんてないと、自分自身に言い聞かせるためのこじつけだった。口にしてから未練がましい想いに気がつく。鬱陶しいそれにため息をつくと、傍らの兄が怪訝に首を傾げた。
「え?」
「だから、独り言です」
改めて言うと、彼は「ああ、そうか」と苦笑いを寄越した。水を差された形にはなったが、それが却って良かったのかもしれない。突き詰めるよりも、一度立ち止まって振り返った方が冷静になれる。
「彼女の言葉を疑ったことは何度もあるけど、彼女の心を疑ったことはないんです。だから、困るというか……」
本心そのものを吐き出すと、ふと自嘲に似た思いがこみ上げてくる。
「自分でも、どうしてここまで肩入れしてしまうのか、不思議でならないんですけど」
呟くようにして言うと、脳裏に彼女の顔が浮かぶ。初めて会った時に見せた笑顔、軍学校に通うことになったと報告した時のしたり顔、ヒューバートの部隊に配属になったと言った時の嬉しそうな顔、軍から追われる羽目になった事件で見せた意思の強い凛とした顔、それから、幼い自分に逃げろと言った血まみれの顔。そのどれもが、ヒューバートに向けた表情だ。嘘だったとは言わせたくない。
「それは、おまえが彼女のことを心から信頼してるからだろ」
ふと、傍らの兄を睨むようにして見る。
「でも、疑っているんですよ」
「それでも、本心はそうじゃないって信じてるんだろ? 良く知ってるから、こそだ」
見透かされている気がした。何だか無性に悔しい。ついと視線を逸らし、自分でも八つ当たりと思うような言葉を返す。
「兄さんは、考えが甘いんですよ。何でもかんでも信用していたら、いつか背後から刺されます」
「その時は、その時だ。俺の見る目がなかった、罰とでも思えば良い」
「それで悲しむのは、兄さんじゃなくて周囲の方なんですけどね」
「それでも、疑ってばかりよりかは良いと俺は思う」
苦笑した兄を見ると、彼は徐にヒューバートの肩を掴む。
「慎重になるのは、俺じゃなくていいだろ?」
今は彼の側にいない弟のことを、言っているのだろうか。離れた場所で暮らしていて、四六時中見張っているわけでもないのに、どう慎重になれというのか。
「また、そんなことを言って……」
呆れてため息をつくと、アスベルは手を引く。
「おまえだって、少しくらい信用しきってしまえる人がいて良いと思う。それが彼女なんだって、俺も思うよ」
随分とはっきり物を言うアスベルに、堪らず俯く。多分、多少頬が赤いと思う。恐らくヒューバートの内心など、彼にはかけらも分かっていないだろうから、抗議をするわけにもいかない。はがゆくて、吐き捨てるように言った。
「何も知らないくせに」
「何も知らないわけじゃない」
緩慢に首を振ったアスベルは、少しだけ遠くを見つめるように、視線をヒューバートから外して言った。
「一緒に旅をしただろ?」
自信満々に言い切るアスベルに、その程度で何が分かるのかと言いかけた。アスベルよりも多くの時間をメグと過ごしてきたのは自分だ。それを全て言ってしまわなかったのは、まるで嫉妬みたいな言い分だったからだ。
#TOG #-第一話