第一話:4

 散歩を途中で切り上げ、戻ってすぐに兄を執務に向かわせる。散歩の目的であった自分の気持ちの整理は大凡のところはついたし、遊びほうけて仕事も進まないのでは弟としても情けない。長らく認めるのは嫌だったが、つまりヒューバートはアスベルには誇れる兄でいてほしいと願っているわけだった。それはヒューバートの兄としてでもあるが、何よりラント領主として、社会的立場を鑑みたところでもそうだ。
 放っておいてもそういう兄に自然となってくれるかと言えば、そうではないところが何とも頭が痛い話だが。
「よし! 終わった~……」
 ふにゃりと机に突っ伏す兄の姿に、先ほどまで自分が考えていたことが見事に重なって、ため息が出てくる。アスベルは目線だけヒューバートに向けてきた。だらしがない。
「助かったよ、ヒューバート。おまえが来てくれなかったら、あと一週間はこもりっぱなしだった」
「そんなことだろうと思いましたよ……」
 大抵が申請の書類で、ラント領主の許可がないと進まない計画ばかりだ。復興計画に付随する細かなラント領の権利に関するものばかりで、申請書類の一々を読み上げ分かりやすく説明してやらなければ彼は理解すらしてくれなかった。説明が終わると、アスベルは必ず「さすが、ヒューバートだな」などと言ってはくれるが、普段こういった業務は誰がやっているのだろうかと不安になる。恐らくはフレデリックあたりに頼んでいるのだろうが、この業務は彼の仕事ではないはずだ。
「けど、このままじゃ困りますよ。今回は、たまたま休暇が取れたから良かったものの、基本的にぼくに休暇なんて然程ありませんからね」
 アスベルは、ぱっと顔を上げる。
「じゃあ、どうして今回は休暇が取れたんだ?」
 妙なところを気にするな、と少し引っかかる。
「以前の事件の穴埋めでしょうね」
「事件?」
「兄さんがストラタへ来た時、港であったでしょう」
 疑問に眉を寄せていたアスベルは、「ああ!」と声を上げてから身体を起こす。
「あれか、おまえが軍から追われていたとかいう……結局、あれは何だったんだ?」
 そういえば、詳しく説明はしていなかったか。説明しても、アスベルが全て理解できるとも思えないが。
「話せば長くなりますが、ありもしない事件をでっち上げ、その犯人に仕立て上げられたのがぼくだった、という件でした」
 適当にかいつまんで話す。
「何でそんなことに……」
「養父には、色々としがらみがありますから。おそらく、とばっちりなんでしょうね」
「そうか……大変なんだな」
 暢気に呟いた兄に、呆れて嘆息した。
「他人事のように言っていますけど、領主というのも大変なんですよ。ぼくたちに言わなかっただけで、父さんだって何度命を狙われたことか」
「そ、そうなのか!?」
 脅し文句に、アスベルは顔色を変えて立ち上がった。
「どうかは、知りませんけど」
「おい!」
 見事に青くなっていた兄の顔に、苦笑を堪えるので必死だった。とはいえ、脅し半分に真実味も半分くらい加えたようなものだ。危機感のない兄を引き締めるのには、ちょうどいい。
「でも、そのくらい危機感は持っていてください。ぼくは嫌ですよ、この歳で兄さんの葬儀に出るなんて」
「本当に嚇し付けるなよ……物騒だな」
 はあ、と長いため息をついたアスベルは、脱力したようにへなへなと座り込んでしまった。多少薬にはなっただろうか。落ち込んだように見えるアスベルに、溜飲が下がる思いをした。

「こんこんこん」

 と、不意に声がかかる。もちろん、兄のものでも自分のものでもない。声がしたのは、執務室のドアからだった。慌ててそちらを見るが、何があるわけでもなかった。
「な、何ですか?」
「ソフィだよ。どうぞ」
 事も無げに声をかけるアスベルに続き、ドアの開く音がする。
「失礼します」
 幾分女の子らしい装いのソフィが、騎士のような形式の敬礼をして現れた。子供の頃、王都で出会った兵士がやっていた形によく似ている。自信満々といった風で、勇ましく現れたソフィは出で立ちとはそぐわずにちぐはぐだった。
「どう? 上手くできてた?」
「ああ。ただな、こんこんこんって口で言うんじゃないんだよ。ドアを叩くんだ」
「そっか、間違えた」
 しょんぼりと肩を落とすソフィに、そこじゃないと声をかけようとしたが、やめた。不毛だと判断したからだ。
「何をやっているんですか?」
 とりあえず訊ねると、ソフィが嬉々として答える。
「アスベルのお仕事が終わったら、レイギサホーを教わるの」
 言いながら、ソフィは歩を進める。その仕草もどことなく、彼女の言う礼儀作法とやらに則っているのだな、と思えるような堅いものだった。
「最近、王国貴族からのお誘いも多くてさ、時々バロニアにも連れて行くんだが……ほら、作法って面倒くさいだろ?」
 補足するアスベルに、ソフィは大きく頷いた。長い髪がふわりと揺れる。
「わたし、ちゃんとできるようになりたいの。アスベルの家族として」
 その言葉に、多少面食らう。彼女の口から、そんな台詞が出てくるとは思っていなかったからだ。
「家族、ですか……」
 そのまま口にすると、ソフィは不安げに首を少しだけ傾げる。
「おかしいかな」
「いいえ。確かにそうだな、と思って」
 首を振って答えた。
「もう、随分前からソフィはずっと家族のような気がしていましたから。今更言われると、何となく違和感があるというか……」
 当たり前のことを、わざわざ言われているようだった。ソフィとは、初めてあった時から今まで、ずっと一緒にいたような気がしてならない。もちろん、ヒューバートがラントを離れてから彼女に再会するまでに月日は経っていたのだが、そんなことはなかったかのような錯覚があった。当たり前にそこにいる存在を、わざわざ否定する理由なんてない。
「そうか、そういうことか」
 思わず口に出したのは、ソフィのことではなかった。ずっと腑に落ちなかった彼女の落とし所だ。当たり前にそこにいて、いつも鬱陶しいくらいにヒューバートを構って、窮地に陥れば打算なんて考える前にヒューバートを救うような彼女を、疑うか疑わないかなんて考えるだけ無駄だった。答えはずっと前に出ていて、ただ見ないふりをしていただけだ。信じるか信じないかは、彼女にかかっているわけじゃない。自分の心一つだ。
「何だ? どうしたんだ?」
 怪訝なアスベルの問いに首を振った。
「あ、いえ。何でもありません」
 繕っても誤摩化せそうにないのは、アスベルの視線でよく分かっている。珍しく弟を疑う兄に、咳払いをしてから訊ねる。
「ところで、礼儀作法だなんて兄さんに教えられるんですか?」
「失礼だな。一応、俺だって一通りは叩き込まれているんだからな」
 ついに椅子から離れてソフィの前に立ったアスベルは、左腕を胸の前に置く形の敬礼を取る。
「いいか、礼はこう構えるんだ」
「こう?」
 アスベルと向かい合ったソフィは、右腕を胸の前に置く。ちょうど鏡のようだった。
「兄さん、それは騎士の作法じゃ……」
 ウィンドル王国騎士のやり方はソフィに向いているとは思えない。嘆息すると、決まりが悪そうにアスベルは頭を掻いた。


#TOG #-第一話
#TOG #-第一話