#TOG #リチャード
時季外れの雨の日だった。それも、午前中は晴れていたというのに、突然の大雨だ。使用人たちが慌てて取り込む洗濯物を、何も言わず受け取った。普段なら、主人の娘に対してなんという態度を、と怒鳴りつけるところだが、今はそれどころじゃない。次々やってくる洗濯物を作業室へとさばいていく。しばらくすると、使用人の一人が異常な事態に気づいたようで「あっ」と声をあげた。
「エレノア様! 申し訳ありません。私たちの仕事でした」
深々と頭を下げる彼女の張った声に、何人かが「申し訳ありません」と続く。
「それどころじゃないでしょう、急な雨なんだから」
「ですが、大変無礼なことをしでかしてしまいました」
引かない彼女に、エレノアは少し辟易としてきた。
「気持ちは分かるが」
作業室の前を通りがかった父が、異常に気づいたのか、声をかけてくる。
「エレノア。使う者と使われる者の線引きは、きちんとしなくてはならない。今までのことはいいが、ここからは彼女たちに任せなさい」
諭されたのは、エレノアの方だった。釈然としないが、ここで父に食って掛かっても仕方がない。おとなしく「はい」と呟き、持っていた洗濯物を近くの使用人に渡す。
先程までは大雨が叩きつけていた庭に、俄に陽が戻ってきていた。自室で読書をしていたエレノアは、中途半端なページを机に押し付け、窓へと駆け寄る。濡れた木の葉が陽の光を反射して、眩しかった。誘われるようにして一気に窓を開くと、少し蒸れたような匂いがした。
なんとなく、アスベルがいたら飛び出していきそうな陽気だ、と思った。
去年、下の弟であるヒューバートがストラタのオズウェル氏の元へ養子に行った。そのすぐ後に上の弟であるアスベルもまた単身バロニアへと向かった。ヒューバートが養子へ行くことを黙っていたこと、ソフィという大切にしていた少女を失ったこと、他にも要因はあるとは思うが、予てより無鉄砲な弟を飛び出させるには十分だったのだろう。気づいた頃には、エレノアは兄弟で一人残ってしまっていた。
(面白くない)
窓枠に肘をついて、何となく息を吐く。今頃、アスベルだけでも庭を駆け回っていたのだろうか。そうして父にどやされ、むくれ顔のまま屋敷に入っていく姿が、この窓から拝めたかもしれない。きっと、そうなるにはどこかで間違えていなければ良かったのだろう。でも、それがどこなのかは、エレノアには分からなかった。
「エレノア」
微かな声にはっとして、その主を探す。下の方だ。もっと言えば、少し遠くのような気がする。庭か。目を凝らして探してみると、木陰から小さな手のひらがふらふらと揺れているのに気づいた。誰のものだろうか。考えた次の瞬間、ぞっとする。
エレノアは、慌てて自室を飛び出し、階段を駆け下り、屋敷の扉を乱暴に放って飛び出す。自室の窓から見えた木陰はこのあたりだ、と見当をつけたところで見覚えのある後ろ姿を目にする。
「何をやっているのよ、リチャード」
かくれんぼの相手であるように、努めて冷静に訊ねる。大げさに「王子殿下」として騒いでしまってはいけない。それも分かっているのか、彼はおずおずとこちらを向く。
「あの……久しぶり」
「久しぶり、じゃないわよ! 何やっているの、と聞いたのよ!」
「待って、エレノア。少し落ち着いて」
エレノアの声に驚いた使用人が飛び出してこないか、彼は気を使ったのだろう。あいにく、洗濯物の処遇で忙しくしているため、そういった心配は無用なのだが。
「エレノアに話があったんだ。アストンには内緒で……」
「はあ?」
やけに神妙な顔つきになった彼に、エレノアは素直に首を傾げた。
自分の家であるはずなのに、まるで忍び込むようだ。使用人の目をかいくぐって、何とか二人自室にまでこぎつけると、慌てて鍵を締める。とりあえずは、これでいいだろう。安全を確保してから、リチャードを椅子へと促す。おずおずと座った彼に向かいあう位置に引きずったスツールを落ち着けた。
「で、話って」
父にも内緒に、とつけたからには大層な話に違いない。言いにくそうにしていたリチャードは、やがて口を開く。
「エレノア、君は僕が僕に見えているかい?」
至極真面目な表情をしたリチャードが、ふざけたような台詞を吐いてくれる。どう答えていいのかは分からないが、答えないというのもない気がする。少しだけ逡巡したエレノアは、彼女にしては珍しく自信のない様子を見せながら答える。
「何があったか知らないけど、私の知ってるリチャードは、今目の前にいるあなたと同じよ」
一瞬眉をひそめたものの、リチャードは安堵したように息をついた。
「もしかしたら笑うかもしれないけど」
「何よ」
「僕は、僕じゃない何かが中にいるような気がしてならないんだ」
何だか子供向けの創作話のようだ。何がいるというのだろうか。呆れて息を吐くと、リチャードは慌てて手を振った。
「ごめん、唐突すぎた。今のは忘れてくれ」
「そうするわ」
どう考えてもエレノアでは処理しきれない話だ。それが本当のことだったとしても、子供のエレノアの手には余る。そもそもが、王子殿下なのだから
「あなた、一人でここまで?」
思い至って訊ねると、リチャードは小さく首を振った。
「港までは護衛が二人。振り切ってここまできたんだ」
「大胆な王子殿下ですこと」
「ありがとう」
皮肉に笑顔で返すとは、してやられた。
「でも、迷惑はかけられない。すぐに出ていくよ」
ふと、寂しそうな顔をした少年になって、リチャードは腰を上げた。目で彼を追って訊ねる。
「一人で大丈夫なの?」
「ここまでだって一人で来たんだ。大丈夫」
上目遣いの形になったので心配されたとでも思ったのか、リチャードはエレノアの頭を軽く撫でるように叩いた。それからすぐに部屋のドアへと向かっていく。
「エレノア」
彼がぴたりと止まったのは、ドアの直前だった。
「なに?」
「君は、僕が僕じゃなくなっても、それでも今みたいな言葉をくれる?」
いつになく弱気な台詞に、エレノアの胸にざっと不安が通り過ぎた。
「私は嘘をつかないわ。あなたがあなたじゃなくなったら、そう言うだけよ」
ふと顔だけこちらを向けたリチャードが、驚いたように目を丸くしていた。
「それでも、あなたは絶対に帰ってくるって信じてる」
まるで彼の言葉を丸きり信じ切っているような言い様になった。それがまた不安にさせてくれる。だが、リチャードはその言葉に満足したようで、苦笑をして「ありがとう」と呟き、そのまま鍵とドアノブを一気に開けた。駆け下りる音が止むまで、エレノアは座ったままで動けなかった。嫌な予感がする。どうも、それが当たってほしくないと願うしかなさそうだ、というのが気に食わなかった。それでも、何もできないのだろう。二人の弟を手放した時のことを思い返し、エレノアは歯噛みした。
部屋に差し込む陽光が、エレノアの背中を突き刺していた。
時季外れの雨の日だった。それも、午前中は晴れていたというのに、突然の大雨だ。使用人たちが慌てて取り込む洗濯物を、何も言わず受け取った。普段なら、主人の娘に対してなんという態度を、と怒鳴りつけるところだが、今はそれどころじゃない。次々やってくる洗濯物を作業室へとさばいていく。しばらくすると、使用人の一人が異常な事態に気づいたようで「あっ」と声をあげた。
「エレノア様! 申し訳ありません。私たちの仕事でした」
深々と頭を下げる彼女の張った声に、何人かが「申し訳ありません」と続く。
「それどころじゃないでしょう、急な雨なんだから」
「ですが、大変無礼なことをしでかしてしまいました」
引かない彼女に、エレノアは少し辟易としてきた。
「気持ちは分かるが」
作業室の前を通りがかった父が、異常に気づいたのか、声をかけてくる。
「エレノア。使う者と使われる者の線引きは、きちんとしなくてはならない。今までのことはいいが、ここからは彼女たちに任せなさい」
諭されたのは、エレノアの方だった。釈然としないが、ここで父に食って掛かっても仕方がない。おとなしく「はい」と呟き、持っていた洗濯物を近くの使用人に渡す。
先程までは大雨が叩きつけていた庭に、俄に陽が戻ってきていた。自室で読書をしていたエレノアは、中途半端なページを机に押し付け、窓へと駆け寄る。濡れた木の葉が陽の光を反射して、眩しかった。誘われるようにして一気に窓を開くと、少し蒸れたような匂いがした。
なんとなく、アスベルがいたら飛び出していきそうな陽気だ、と思った。
去年、下の弟であるヒューバートがストラタのオズウェル氏の元へ養子に行った。そのすぐ後に上の弟であるアスベルもまた単身バロニアへと向かった。ヒューバートが養子へ行くことを黙っていたこと、ソフィという大切にしていた少女を失ったこと、他にも要因はあるとは思うが、予てより無鉄砲な弟を飛び出させるには十分だったのだろう。気づいた頃には、エレノアは兄弟で一人残ってしまっていた。
(面白くない)
窓枠に肘をついて、何となく息を吐く。今頃、アスベルだけでも庭を駆け回っていたのだろうか。そうして父にどやされ、むくれ顔のまま屋敷に入っていく姿が、この窓から拝めたかもしれない。きっと、そうなるにはどこかで間違えていなければ良かったのだろう。でも、それがどこなのかは、エレノアには分からなかった。
「エレノア」
微かな声にはっとして、その主を探す。下の方だ。もっと言えば、少し遠くのような気がする。庭か。目を凝らして探してみると、木陰から小さな手のひらがふらふらと揺れているのに気づいた。誰のものだろうか。考えた次の瞬間、ぞっとする。
エレノアは、慌てて自室を飛び出し、階段を駆け下り、屋敷の扉を乱暴に放って飛び出す。自室の窓から見えた木陰はこのあたりだ、と見当をつけたところで見覚えのある後ろ姿を目にする。
「何をやっているのよ、リチャード」
かくれんぼの相手であるように、努めて冷静に訊ねる。大げさに「王子殿下」として騒いでしまってはいけない。それも分かっているのか、彼はおずおずとこちらを向く。
「あの……久しぶり」
「久しぶり、じゃないわよ! 何やっているの、と聞いたのよ!」
「待って、エレノア。少し落ち着いて」
エレノアの声に驚いた使用人が飛び出してこないか、彼は気を使ったのだろう。あいにく、洗濯物の処遇で忙しくしているため、そういった心配は無用なのだが。
「エレノアに話があったんだ。アストンには内緒で……」
「はあ?」
やけに神妙な顔つきになった彼に、エレノアは素直に首を傾げた。
自分の家であるはずなのに、まるで忍び込むようだ。使用人の目をかいくぐって、何とか二人自室にまでこぎつけると、慌てて鍵を締める。とりあえずは、これでいいだろう。安全を確保してから、リチャードを椅子へと促す。おずおずと座った彼に向かいあう位置に引きずったスツールを落ち着けた。
「で、話って」
父にも内緒に、とつけたからには大層な話に違いない。言いにくそうにしていたリチャードは、やがて口を開く。
「エレノア、君は僕が僕に見えているかい?」
至極真面目な表情をしたリチャードが、ふざけたような台詞を吐いてくれる。どう答えていいのかは分からないが、答えないというのもない気がする。少しだけ逡巡したエレノアは、彼女にしては珍しく自信のない様子を見せながら答える。
「何があったか知らないけど、私の知ってるリチャードは、今目の前にいるあなたと同じよ」
一瞬眉をひそめたものの、リチャードは安堵したように息をついた。
「もしかしたら笑うかもしれないけど」
「何よ」
「僕は、僕じゃない何かが中にいるような気がしてならないんだ」
何だか子供向けの創作話のようだ。何がいるというのだろうか。呆れて息を吐くと、リチャードは慌てて手を振った。
「ごめん、唐突すぎた。今のは忘れてくれ」
「そうするわ」
どう考えてもエレノアでは処理しきれない話だ。それが本当のことだったとしても、子供のエレノアの手には余る。そもそもが、王子殿下なのだから
「あなた、一人でここまで?」
思い至って訊ねると、リチャードは小さく首を振った。
「港までは護衛が二人。振り切ってここまできたんだ」
「大胆な王子殿下ですこと」
「ありがとう」
皮肉に笑顔で返すとは、してやられた。
「でも、迷惑はかけられない。すぐに出ていくよ」
ふと、寂しそうな顔をした少年になって、リチャードは腰を上げた。目で彼を追って訊ねる。
「一人で大丈夫なの?」
「ここまでだって一人で来たんだ。大丈夫」
上目遣いの形になったので心配されたとでも思ったのか、リチャードはエレノアの頭を軽く撫でるように叩いた。それからすぐに部屋のドアへと向かっていく。
「エレノア」
彼がぴたりと止まったのは、ドアの直前だった。
「なに?」
「君は、僕が僕じゃなくなっても、それでも今みたいな言葉をくれる?」
いつになく弱気な台詞に、エレノアの胸にざっと不安が通り過ぎた。
「私は嘘をつかないわ。あなたがあなたじゃなくなったら、そう言うだけよ」
ふと顔だけこちらを向けたリチャードが、驚いたように目を丸くしていた。
「それでも、あなたは絶対に帰ってくるって信じてる」
まるで彼の言葉を丸きり信じ切っているような言い様になった。それがまた不安にさせてくれる。だが、リチャードはその言葉に満足したようで、苦笑をして「ありがとう」と呟き、そのまま鍵とドアノブを一気に開けた。駆け下りる音が止むまで、エレノアは座ったままで動けなかった。嫌な予感がする。どうも、それが当たってほしくないと願うしかなさそうだ、というのが気に食わなかった。それでも、何もできないのだろう。二人の弟を手放した時のことを思い返し、エレノアは歯噛みした。
部屋に差し込む陽光が、エレノアの背中を突き刺していた。